鳥居龍蔵の足跡を訪ねる旅
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中国東北地方・内蒙古 史跡と考古の旅 &
鳥居博士遼上京文物遺跡調査訪問百周年記念

(No.4)2008年5月10〜17日  鳥居龍蔵を考える会 鳥居貞義  

特別行事
考古学者鳥居龍蔵博士 遼上京文物遺跡調査百周年記念1908-2008 5月14日
共催 中国・内蒙古巴林左旗遼上京博物館  日本・鳥居龍蔵を考える会

 今回の旅の目的は「中国東北部の史跡と考古の旅」で、今から7000年前〜3000年前の新石器時代を中心とした遺跡 を見学する企画に「鳥居龍 蔵を考える会」の立場で参画し、鳥居龍蔵を顕彰する活動の一環として「遼上京文物遺跡調査百周年記念」イベントに参加することにありました。
 高 校の世界史でエジプト、メソポタミア、インダス、黄河を世界四大文明発祥地として学んだ私にとってこの地域はもうひとつの古代文明発祥地として新しい発見 がありました。又、今回の参加者は考古遺跡調査のマニアが中心で、総員17名、高齢者(最高齢86歳?)が多かったにも関らずハードなスケジュールでし た。単なる観光旅行ではなく、知的な目的を持った旅行が流行しつつありますが、今回の旅行は正にその典型であった。
 5月10日ANA機で関空を出発、大連経由瀋陽へ、瀋陽で専用バスに乗り換えてその日の内に阜新へ、その後この専用バスで、錦州、凌源、赤峰、遼上京な どの遺跡と博物館めぐりをしました。
総走行距離は2850Kmと報告された。
 史跡見学で特筆すべきことは赤峰博物館の于海燕(MS)主任の計らいで赤峰市より専用バスで約1時間、松山区にある約4000年前の三座店夏家店下層文 化(サンザテンカカテンカソウブンカ)石城遺跡を外国人として初めて現地調査出来たことで、大きな収穫であった。

以下行程に従って報告する。

阜新 5月11日(日:星期日)
査海(サカイ)遺跡と査海遺址博物館(阜 新蒙古族自治県)
査海遺跡 約7600年前と報告されている。
 ここでの特徴は「龍」の形をした石積み(左写真)が発見されたこと。現在は既に埋め戻されている が、同じ位置に再現されていた。「龍」は中国の神話的動物で、既にこの時代に具現化されていたのは調査研究に値する。現地は枠組みされた地域を除き、比較 的容易に当時の土器破片を採集出来る状態にあった。
査海遺址博物館
 査海遺跡の入口に建てられた博物館で館内は暗く展示は未だ完成していないようであったが「玉(ぎょく)」を中心に貴重な発掘物(一部はレプリカ、本物は 高価なので別途保管)が並んでいた。

査海遺址博物館では「玉の龍」が注目された。

玉龍形玦
(新石器時代)

玉猪龍
(新石器時代)
安田喜憲著書「龍の文明史」抜 粋
現 在の龍に近い形から龍の起源とすると遼寧省査海遺跡の石積みの龍ということになります。査海遺跡は今から7000年前の遺跡といわれています。赤色の鱗を もつ龍ととぐろを巻いた頭部の一部も発見されました。この頃は東北アジアに大きな文明があったようです。日本の縄文文化にも少なからず影響を与えたものと 思えます。
6000年前の河南省西水巴坡遺跡からは貝で作った龍が発見されています。内モンゴル自治区赤峰市の紅山を中心に発展した紅山文化(6600〜5000年 頃)で龍と玉と女神信仰が体系化されます。(紅山文化は5700年前頃の寒冷化により衰退します)
現地ガイド(王君さん)の友人の計らいで父親が勤務していた世界最大と言われた(現在はほぼ堀りつくされ た)石炭の露天掘(阜新海州露天煤礦厰)を見学した。
左の写真は超大型掘削機を町のシンボルとしてロータリーに展示してあったものを専用バスの車窓よりスナップ撮りした。

義県 奉国寺
奉国寺
大雄宝殿は遼代1020年の創建で、殿内には高さ8mの遼代に造られた仏像7体を安置していることから「大仏寺」「七仏寺」とも呼ばれる。

万佛堂石窟
北魏に建てられた義県の万佛堂石窟は中国北方石窟造像芸術の宝庫である。凌河は比較的清流で中の島に牧草地があり長閑な眺め(写真@)であった。その凌河 の九曲と名づけられている地域(写真A)に万佛堂石窟(写真B)があったが、凌河の大洪水で大部分が浸食されていた。
義県 万佛堂石窟(北魏時代)


朝陽 5月12日 (月:星期一)
 朝陽北塔 (北塔博物館) 

雨中の朝陽北塔
中国語ガイド:張暁紅(MS)
朝陽北塔は北魏の時代に建てられた時は木塔であった。

左写真:雨中でアイアイ傘をさしている人物と大きさを比較して下さい。

右写真:『遼文化調査報告書』(京都大学大学院)より

南 面
※塔について 知っておくべきこと。
中国各地には多数の塔が残されているがそれらは時代を経て修復が加えられている。
修復の原因は風化、落雷、地震などが考えられる。
修復時に仏舎利、金、銀、玉、宝飾、仏典、文字(例;契丹文字)などが発見されている。
これらの発見品は博物館でレプリカ(或いは実物)を見ることが出来る。
以下の写真は後日見学した遼上京の塔の変遷を示している。
写真上は北塔(5層6角)、下は南塔(7層8角)
第2次修復後    第1次修復 後     修復前


地震でも生き残った文化遺産

地震の翌日の英字新聞
貴重な世界遺産は壊れなかったという見出しで記事が出ていた。やはり日本の五重塔のような耐震の仕組みがあるようです。

牛河梁工作室
工作室に到着したのは閉室前で特別に見 学できたが消灯されていたので薄暮の中で見学することになった。ビデオを回したがあまりよく写らなかったが牛河梁遺跡は今回のメイン見学地のひとつだった ので何とか予備知識を得た。工作室を出た時には雨が降っており傘が必要であった。ビデオと傘を持ち閉門された状態でスタッフ用の扉を潜る時に転倒し顔に裂 傷を負った。出血がかなりあったので2日後のTV取材がもっとも気になった。メガネは飛ばされたが、ビデオはしっかりと握っていた。

 牛河梁遺跡
私は怪我の為に専用バスで待機することにした。この日は雨天で、地面が泥化していた為、危険ということで、結局見学は後日(※)、赤峰からの帰路に期待す ることになった。
※5月15日 赤峰から朝陽へ向う途中で、立寄ることが出来た。

 四川大地震
こ の日現地時間14時28分に四川省西約50Kmの?(ぶん)川(せん)でM7.8の大地震があったとの一報が日本から辻田社長の携帯電話に入った。世界遺 産の九寨(きゅうさい)溝(こう)へ陸路専用バスで行くコースにあり、大活断層がある場所との解説が杉本教授からあった。
今回訪問した遺跡(遺址)と博物館
今回の旅では遺跡と博物館 の見学が中心であった。
ここで学んだ要点のみを記し、詳細は別途報告する
訪問日  遺跡(遺址)  博物館
5月11日 査海遺跡
5月12日 牛河梁遺跡
5月13日 紅山遺跡
5月14日 遼上京遺跡
5月15日 牛河梁遺跡
5月16日 広済寺古建築群
5月17日 新楽遺跡
査海遺跡博物館
牛河梁工作站
赤峰市博物館
巴林左旗遼上京博物館
遼中京博物館
錦州市博物館
新楽遺跡博物館、遼寧省博物館
遺跡も博物館も立派であったが、パンフレットなどが整備されていないので正しく理解することが出来ず残念であった。この 報告書も出来る限り正しい情報を記すことに努めたが残念ながらまだまだ不十分である。


赤峰 5月13日 (火:星期二)
赤峰市博物館  案内:黄副主任
昨年は来たときは軍の幹部が見 学しており、写真撮影も出来ず、じっくりと見学することが出来なかった。
今回も早朝時間外の見学であったが写真撮影することは出来た。赤峰各地に立派な博物館が出来ているがここではそれら全体の概括が学べるようになっている。

紅山遺跡(址)群

この山は文字通り紅い色の岩で 日本人が名づけたといわれている紅山文化という名称の語源となっている。
ここでは比較的容易に土器片を見つけることが出来た。
杉本教授と于海燕主任から現場 で紅山文化の説明を受け2006年カラチン王府でTV取材を受けた時のことを思い出す。

三座店夏家店(サンザテンカカテン)下層文 化石城遺跡(赤峰市松山区)

赤峰市博物館の于海燕(MS) 主任の計らいで紅山遺跡群見学後、三座店夏家店(サンザテンカカテン)下層文化石城遺跡赤峰市松山区)を見学することが出来た。
ここは2006年発見され中国重要考古発見遺跡に指定されたばかりで、外国人としては最初の訪問ということであった。
約4000年前の石積みを目の 当たりにし古代人の歩いた古道を歩くことが出来たのは特別の感慨であった。
主 要な遺跡だけで37箇所あるとのこと、住居跡、井戸、倉庫、道路などが4000年前の状態で残されていた(放置)のは不思議な感覚がした。鳥居龍蔵が発見 しなかった場所は100年後の今日まで残されていた。鳥居龍蔵が来ていたら写真とスケッチで正確に記録されたであろう。


馬面形城壁

小城から大城へ






三座店夏家店石城遺跡のパノラマビュー


遺跡の真近に迫っていたダム工事現場
遺跡の直ぐ近くで大規模なダム工事が行われており、
うまく共存出来ることを願うのみであった。


100年前の記録(1)
鳥居龍蔵が調査した100年前頃はどのようなものであったか『鳥居龍蔵伝』より抜粋・編集したものを下記します。
『鳥居龍蔵伝』岩波現代文庫 中薗英助著216頁にある鳥居龍蔵の記録より抜粋・編集
「赤峰の蒙古名はオーランハタ。オーランハタで越年して1908年元日の日の出を迎えた。
こ の頃、鳥居きみ子は、東京の川崎安夫夫妻に宛てて手紙を書き送っている。鳥居が予定の前途に横たわるシラムレン河はすでに結氷し、人馬と車の往来が始ま り、「塞北の景色は今が見頃」と書けば、きみ子の方はシナ商人と内外蒙古人の行き交う賑やかな赤峰の市内風景を描写し、「ある時は自宅へ蒙古人を連れ帰 り、茶菓などを与えて話を聞く」時もあり、「いよいよ興味盛んにて一日も早く奥地に進みたい」と元気なところを報告している。
1月21日 妻子と 共に正月休暇を済ませた鳥居は教師(ポンスク)を連れて、遼の中京遺跡のフィールドワークに出かけた。馬車の背後からは赤峰県の騎兵一騎が護衛兵として随 行した。清政府が発行した漢蒙両国語で行先を明記した護照(旅行免除)の威力であった。赤峰から南東へ一週間の旅を続ける間、石造遺物などの考古学及び土 俗学調査をしながら、ついに老哈河畔の広大な平野にある遼の中京に到着した。中京の蒙古名はチャガンサブルカ。白塔という意味である。城壁は土城にして、 すなわち土を磚(かわら)の如くし積み重ね版築-(はんちく)、高さ1丈八尺、城の厚さ5尺余、周辺40清里、城の外に堀の後あり、城内は三部に区画 せらるるが如し。(鳥居龍蔵著『蒙古旅行』)
5メートル半もの高さをもつ城壁で、約6キロ四方を囲んだ広大な古城ということだから10世紀から 12世紀にかけて契丹族の建てた遼王朝の勢威がしのばれる。遼は聖宗、興宗、道宗の三帝によって最盛期を迎える。シラムレン河流域の上京についでこの中 京、さらに四方へ東京、南京、西京と五京をおいて、九代210年間にわたり満蒙から中国北部を支配したが、その城跡の一つを目の当たりにした鳥居の感動は どれほどのものであったろうか。周辺の山河だけでなく、人に知られぬまま厳然たる城郭が遺(のこ)され、その城内には巨大な大塔が東西に相対して遺されて いた。しかも、東側の八角十三重塔はほぼ完全な状態が保たれ、塔の八面にはそれぞれ仏像を中央にして飲食物を仏に捧げつつ飛ぶ天人を配し、台座 にも見事な彫刻が凝らしてあり、塔の高さは約100メートルと称される。

100年前の記録(2)
『鳥居龍蔵伝』岩波現代文庫 中薗英助著218頁にある鳥居龍蔵の記録より抜粋・編集2
親子3人で赤峰を出発
鳥 居は城跡の中を、重たい防寒外套の裾をひきずりながらも、飽きることなく教師(ポンスク)と共に歩きまわった。城内中央部には別に中城があり、その後方に は北城、棺材城、花園城の三城がある。中城をのちの北京の故宮とすれば、その格好は今の北京そっくりと言えないことはない。それもその筈で、十世紀の半ば に遼は今日の北京を、契丹族からすれば南方の都、即ち、南京と命名した。もっとも、この南京城は遼史の地理志によると方三十六里というから、五キロ四方位 の規模だったかもしれない。
この城は明朝より以降全く用いざりしかば、城内は今や高粱畑と化し、人家とではラマ僧の小舎の如き者二、三あるのみ、 畑の中に散乱する屋根瓦、陶器等に空しく往時の栄華の名残りを留む。中城内には石獅子を存せる外、昔時の宮殿の跡と思わるるもの処々に残れり。(『蒙古旅 行』)
荒れ果てた場内をさんざ歩きまわって調査した。その日は、城外の一民家に頼み込んで一泊した。夜、伝え聞いた農民たちが続々とやって来て城 内で拾ったらしい古銭を差し出して買えとねだるのにもいちいち丁寧に応対し、「その大部分」を買い取ったというのだから、鳥居の中京にかけた熱意もうかが えるというものである。
―中略―
出発の準備を大童で仕上げたきみ子は、荷物の中に酒を入れなかった理由をこう言っている。「蒙古人が第一の嗜好品の酒をなぜ持たなかったかという理由は、 私の夫が日頃から酒の臭いさえ嫌いでありますから、残念ですけれど持って行きませんでした」
もちろん、それもあったが、しかし若しもポンスクが同行を承知したならば、必需品の酒を入れないわけにはゆかなかった。
準 備した乗り物は二頭立ての馬車五台。荷物は三台、乗用に二台であった。荷物の内2台は食料品の他に土産の葉タバコや砂糖、五色糸、針、リボン、サーベル、 時計、これも土産品の首飾り玉や石版絵、薬品として清心丹、宝丹、中将湯、苦味チンキ、硼酸(ほうさん)、膏薬類、脱脂綿、包帯、ガーゼ、薬用アルコー ル、石炭酸、下痢、解熱剤、歯薬、それに護身用の短銃など。もう一台には、親子三人の着替えと夜具、参考書類と食器類であった。
三月十五日。五台の馬車隊の前後を、四騎の騎兵に守られて、赤峰を出発した。
 気温はすでに、零度の上下を「十度位昇ったり降ったり」しており、蒙古ではもうすっかり寒博物館冷期を抜け出していた。
 別れを惜しむ人々は街の北門まで見送りに出て、口々に話し合っていた。蒙古語の堪能になったきみ子には、生きて帰ってくればよいがなどと言っているのが わかった。
 鳥居は、このときの決意を述べている。
  今赤峰より此の地の旅程に上らんとする際には、蒙古語にて日常の談話には差し支え無き程度に達せしかば、今此の教師(ポンスク)に同行を謝絶せられしも、 少しも苦しまざりき。斯くの如くして余等三人は自ら学びたる蒙古語を実際に活用し、もって旅行することとなせるが、のちにて思ひ合すれば、此の事は非常の 利益を、余等の旅行に与へたる武器なりき。(『蒙古旅行』)「余等三人」の中には、じつに生まれて満一歳そこそこの幸子も入っていた。
 馬車から落ちて沙漠の沙で歩くことをおぼえた幸子は、早くも蒙古語を口にするようになっていたのだ。鳥居の最も好きな言葉「自助にして自力」そのままで ある。
 きみ子の『土俗学上より観たる蒙古』によるとただただ広漠として、次から次へと大浪の押し寄せてくるような、深い沙漠ばかりであったと。

特別行事
考古学者鳥居龍蔵博士 遼上京文物遺跡調査百周年記念1908-2008 5月14日
共催 中国・内蒙古巴林左旗遼上京博物館  日本・鳥居龍蔵を考える会
巴林左旗 5月14日 (水:星期三)
10時のセレモニーに間に合わせるホテルを午前6時30分出発、赤峰〜大坂間・赤大高速を走り、
巴林左旗遼上京博物館へ
王健旗長 (巴林左旗)歓迎挨拶
王未想 館長(巴林左旗遼上京博物館)歓迎挨拶
陶健英(MS)局長(文化体育局)他の出迎えを受け、早速セレモニー会場へ。王館長のスピーチに続いて、姉が描いた鳥居龍蔵博士、きみ子夫妻の肖像画を贈 呈する。
セレモニーの後、全員が博物館内を見学することになったが私だけが王館長の要請でTVインタビューを受けることになり、二つの理由で困った。
一つは牛河梁で転んだ時の顔の傷、もう一つは時間の関係で楽しみにしていた展示場見学が出来ないこと。
インタビューの後で、王館長より遼之文化図譜(鳥居龍蔵著)第2冊の要望があり帰国後送る約束をした。帰国後調査したところ図譜は第1冊から第4冊まであ り、原本は古書店で1冊約10万円の高価なものであった。
研究者にとっては価値の高い貴重な写真集で、その記録は鳥居龍蔵の面目躍如であった。

巴林左旗遼上京博物館前で記念撮影
この博物館はこの地に似合わないほど巨大で立派な建物であった。

『考古学上より見たる遼の文化図譜』第二冊鳥居龍蔵博士著 東方文化学院東京研究所発行
左の写真は約100年前に鳥居 龍蔵が写したもの。
モンチョク山麓に残存する遼の太祖陵に関係せるドルメン型石室
祖陵「遼陵及奉陵邑」を守る邑 とモガリを行ったと見られる石室(右写真)を見学、この石室は鳥居龍蔵が100年前に訪れた時に撮影した乾版写真(図譜第二)にも記録されている。前面に は石刻模様が残され、側面には前面扉との間に三角形の掘り込みが見られた。
遼上京遺跡の北門 遼上京遺跡の内城 
博物館の林先生の案内で版築(はんちく)で固められた城壁を見学した。

版築は非常に頑丈で、城壁や墳墓など大規模な建造物をはじめ、道路や家屋などにも用いられてき た。中国では古代における長城など大規模な工事での使用例も多いが、日本では主に家屋の壁や城郭の土塁などの建設に用いることが多い。
(Wikipedia)

巴林左旗遼上京博物館に掲示さ れていた「契丹魂」の文字は何を博物館
物語っていたのだろうか。

遼の歴史について 杉本教授の解説
大契丹国 凌河、シラムヘレン川流域
耶律阿保機(やりつ あぼき、Yelu Abaoji, 872年 - 926年 在位907年 - 926年)が建国。契丹(きたい)帝国(漢風国号として、遼も名乗った)の初代王となる。
第2代太宗の時に宋と戦って勝利し、農耕民(唐、宋)を支配したことで、従来の遊牧民(契丹など)との2面支配体制を敷き約100年間平和を維持する。
第6代聖宗の時に銀と絹を手に入れることにより、100年間の宋との間で平和の基礎を作る。又、西夏を属国化するのだが、金(女真族)に滅ぼされる。
複都制 上京、東京、中京、南京(現北京)、大同
行政組織
        ┌─北面行政官―皆兵制
  皇帝──┤
        └─南面行政官―徴兵制
 

5月15日(木:星期 四) 赤峰〜寧城〜朝陽
寧城大明塔・遼中京博物館

2日に専用バスで通過したとき にはお祭り(廟会)の最中で、露店と人波で大混乱していた。
この日はホテルを午前8時30分に出て赤峰に向かった。途中、北塔の近くでお祭があり露店が並び大勢の人で賑わっていたが専用バスは徐行しながら走り続け た。
飾り物だけが前日までお祭りの余韻を残していた。
遼中京博物館は大明塔に向かって右手にあった。
足早に回ったのとパンフレットが無かったのが残念だった。
牛河梁遺跡、女神廟跡
雨と負傷の為、12日に見学できなかった牛 河梁遺跡を運よく見学することができた。

(写真は遼都神韵 陳文彦主編 内蒙古人民出版社発行より
博物館
新設された女神廟説明碑
(中・英文字による解説)


女神像

埋め戻される前
牛 河梁遺跡は鉄道と道路に挟まれた地域に存在していた。夫々の建設工事の時に発見、発掘時に破壊がなかったか気になる所である。
埋め戻された後は元の姿が
全く分からなくなっていた。

錦州5月16日(金: 星期五)
朝陽→錦州
錦州市博物館博 物館
館内紹介パンフレットを置いて いる博物館は少なかったが
この博物館にはパンフレット(有料)があった。
 見学者にとって案内パンフレットは極めて有用だ。
広済寺古建築群 
※はパンフレットからスキャンした写真で す。

※天后宮大殿

広済寺大雄宝殿

※天后宮山門

大広済寺
<広済寺(こうさい じ)>
 大仏寺ともいい、錦州市古塔区にある。
 創建は遼代で、のちに焼失し、清の道光9 年(1829)に再建。
  伽藍は稠密な配置で長方形を呈し、中心をなす仏殿にいまや仏像はないが、檐柱と頭貫に精美な彫刻が施されている。門前に遼の清寧3年(1057)建立の高 さ57m・八角13層の磚塔があるが、檐はすでに脱落。新中国成立後、改修をくりかえし、現在は錦州市博物館となっている。

新陽5月17日(土: 星期六)
新楽遺跡博物館



新楽博物館の前の道路を隔てて天井のあるハウス内の遺跡と屋外に竪穴式住居模型があった。




遼寧省博物館
 
中国北部には各地に博物館が順次新設されていた。遼寧省博物館もその一つである。
2006年3月に京都大学院より発行された「遼文化・遼寧省調査報告書」によると
「2005 年11月にオープンした真新しい遼寧省博物館は、瀋陽のメインストリートにある市政府と相対した新市街のど真ん中にある展示室は3階まであるが、3階はま だ工事中。2005年訪問した内蒙古自治区の遼上京博物館も建ったばかりで、まだ展示物が搬入されていなかったし、錦州市博物館も建って間無しという施設 だっ た。今回訪問した朝陽市博物館も、現在、新館が内装工事中。中国北部では、市街地の再開発に伴い、次々と新博物館が建設され、オープンしつつあるよう だ。」

瀋陽市のシンボルタワー

★旅行余話
☆四川大地震
@    四川省大地震発生時は専用バスで移動中でしたが、日本から現地時間5月12日14時28分に四川省・成都の西約50キロの?川市でM7.8の地震が発生し た旨、添乗の辻田社長の携帯に連絡があり、その後毎日の現地TVを見ていました。
A中国事情に詳しい杉本教授の解説では震源地は九寨溝へ行く時の専用バス路線にある?川市には大活断層があり、地震が多く100余年前にも大地震があった とのこと。
BTVでは海外からの見舞い状紹介で日本・福田康夫首相がトップで紹介されていました。
 2位.ブッシュ大統領、3位.パンギブン国連総長・・・・・何故か最後がロシアでした。
 義捐金ではキャノン、松下などの企業の他に富山の中学校も紹介されていました。
このような紹介は画面の下部にあるテロップでも何度も流されていたので印象的でした。
C直接地震の影響を受けた訳ではありませんが、同日の地震発生2時間30分後牛河梁遺跡資料館見学直後退出時に転倒し顔面に裂傷を負いました。その後2週 間ヒゲが剃れなかったのでそのままヒゲを生やすことにしました。
D帰国後、日赤を通じて四川大地震支援金を送ったことを中国の友人に知らせたら“涙がでるほど嬉しい”という返信が来た。
☆最新交通事情
@過重積載トラックの増大で道路が傷み、厳しく取り締りをしているが、同行の専用バスの運転手によるとアスファルトの場合は道路に轍が出来ていることがあ るとのこと。
A    ガソリンスタンドでは給油(重油)を待つ大型トラックの長い列が出来ている。1回の給油量も制限されているとのこと。
B    自家用車は都会地では既に一般化しつつあるが現地添乗員の旅行社の場合、従業員50名の内、自家用車を持っているのは社長と部長の2名だけ、今後益々増加 し環境問題、燃料問題に拍車がかかることは必定です。特に中国のトラックはどれも超大型、専用バスは10時間以上の長距離を走る。
☆最新結婚事情
12 日車中で王さんが語ったところによると、結婚準備として、男性はマンション、女性は電化器具一式を用意する必要がある。彼の場合は貯金、ローン、 親からの借金で各三分の一ずつ100万元準備してマンションを購入した。彼が介護の仕事をしていた時の給与は月1万円だった。
☆「衣食足りて礼節を知る」管仲の言葉 出典:管子 春秋時代
   帰路の飛行機は満席でほぼ半数が中国人の若者であった。嘗て中国人団体と乗り合わせた時には我が物顔の振舞いが目立って迷惑したがこの団体は紳士的で あった。私の事務所は大阪城の近くにあるが最近中国人若者のグループ観光が目立つようになった。彼等は英語も日本語も話せるインテリだ。観光立国を考える と日本の受け入れが問題のようだ。現在の日本を見ていると「過ぎたるは及ばざるが如し」というべき状態だ。




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