鳥居龍蔵の足跡を訪ねる旅
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『人類学・考古学の巨人
鳥居龍蔵の足跡を辿る旅』報告

(No.3)2006/06         鳥居龍蔵を考える会 鳥居貞義 岡本正明

(はじめに)

鳥居龍蔵を考える会では鳥居龍蔵の人類学・考古学の学問的原点となった内モンゴル自治区にその足跡を訪ねて学問的業績を顕彰するとともに同氏を取り巻く家族達が協働作業者としてどの様に関わっていたかを調べている。
 第1段報告は鳥居龍蔵が太平洋戦争を挟んで戦前・戦中・戦後の一時期(1939〜1952)客座教授として教鞭を執っていた燕京大学(現・北京大学)に 博士の孫弟子に当たる安志敏先生(*1)と唐進倫先生の両氏を2004年6月に訪ねて、戦前の自由な雰囲気の燕京大学のこと、日本軍(日本政府)による閉 校・休職時(1941年12月〜1945年8月)の重苦しく不自由な環境で家族が生活に困窮した為、蔵書を売って生計を立てておられたことなど貴重なお話 を伺うことが出来たので、それらを報告書にまとめたものである。

(*1)2004年「鳥居龍蔵を考える会in 北京」で穏和な話しぶりで語っておられた安志敏先生は惜しくも昨秋(2005年)にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

  前回(No.2)は、鳥居龍蔵、きみ子ご夫妻の中国での学問的フィールドワークの出発点となった内モンゴル自治区にある清代旧カラチン親王府を訪れ女学童 教育から始まり鳥居龍蔵による紅山文化の研究・契丹族の遼代皇帝陵(慶洲3王陵)と契丹帝国の開祖・耶律阿保機の首都臨?府遺跡及び遼上京博物館などを訪 れ、学問的足跡を辿る旅として2005年7月初旬に行い報告書にまとめた。


清代蒙古王府博物館前で左より 清代蒙古王府博物館前  遼上京博物館前で左より
鄭館長、岡本、鳥居、呉副館長 グヌンサンノルブ親王  王館長、鳥居、岡本、郭
 

 今回(No.3)は2006年6月2日(金)から8日(木)にかけて北京と内蒙古に行った。前半の6月2日〜4日は徐福国際学術討論会に出席して北京に滞在し、後半の6月5日〜8日は鳥居龍蔵関連で内モンゴル自治区の

[1]清代旧カラチン親王府(赤峰)[2]巴林左旗上京博物館(林東)
[3]巴林右旗博物館(大板)[4]赤峰博物館(赤峰)[5]北京大学 を訪ねた。

  今回の旅は団長格の鳥居貞義さんと和歌山潮岬の古代史研究家の木村正治さん、コーディネータの郭仁太さんと小生の4人旅であった。今回の取材目的は、前2 回が鳥居龍蔵博士の学問業績の顕彰ときみ子夫人はじめ一家が協働者としてどのように関わってきたかについて“点”の観点でとらえてきたが、今回は前回の フォローも兼ねて“線”へとつなげる作業となった。


[1] 6/5(月)旧カラチン親王府の中国清代蒙古王府博物館に鄭館長、呉副館長を訪問

 ここでの課題は鳥居龍蔵夫妻が旧カラチン王府訪問百周年記念として
  A.鳥居龍蔵の遠縁にあたる昼埜様が描かれた日本画(人物画)額の贈呈式、
  B.同博物館の記念諸行事の進捗状況の確認。
  C.徳島県立鳥居龍蔵記念館との連携方策について
 である。

A.鳥居龍蔵一家の日本画贈呈とテレビインタビューについて
 昨年訪問時の話で今年は鳥居龍蔵ご夫妻が旧カラチン親王府に招聘されて100年になるので記念行事の一つとして、ご夫妻にまつわる部屋を造りたいとの意 向を賜る。今回の訪問時に部屋の一隅に掲げてもらうべく鳥居貞義さんのお姉さんである昼埜さん直筆の日本画額(鳥居龍蔵ご夫妻と幸子さんの肖像画)を持参 する。
 日本画額贈呈についての情報が同博物館より当地テレビ局に流れていたとみえて鄭暁光館長、呉副館長はじめテレビ局のディレクター、カメラマン、女性アナウンサーが待ち受けていて我々一同熱烈歓迎という予期せぬ出来事でびっくり仰天する。
 当地テレビ局では王府百年という記念キャンペーンを行っていて一週連続で特集番組を編み数日前に終わったとの報告を受ける。そんな時期と雰囲気での訪問 であったので、日本画額贈呈式後約1時間王府博物館内のいろんなところでテレビ取材を受ける。インタビュー内容としては@グヌンサンノルブ親王についてど の程度知っているか?A鳥居龍蔵夫妻と旧カラチン王府との関係Bきみ子夫人と女性学童教育C鳥居龍蔵と紅山文化についてD民間の文化交流についての所 感・・・である。若い女性アナウンサーは緊張していたが、元王宮の中庭という環境で、全体としてゆったりした雰囲気で進められた。後日編集され放映された ものを入手したい旨依頼した。

鄭館長へ日本画寄贈喀喇泌(カラチン)王府内の博物館中庭ラチンTVのインタビュー
清代蒙古王府博物館前で肖像画贈呈/王府内中庭でカラチンテレビインタビュー
 

B.呉副館長、北京→カラチン間自転車踏査について
 『ある老学徒の手記』のなかできみ子夫人が1906年3月の旧カラチン王府招聘時に北京から王府迄をラバ喬(馬車)で9日間を要して赴任したと記されている。
 昨年訪問時に100年後の来年呉副館長の発案で上記旅程を自転車で踏査する計画が持ち上がっていた。早速実施状況を伺ってみると王府百年記念行事の一つ として実施済で自転車の荷台に「宣伝資料」を積み込み「のぼり旗」を立てて8日間掛かったとのことでビデオカメラに収まり放映されたとの報告を受ける。途 中の宿泊先では100年前の写真等が見つかるなど幾多の収穫があった様で、今度出来る鳥居龍蔵夫妻関連の部屋に展示されるものと思われる。(展示室は王府 博物館で鳥居龍蔵が以前執務していた部屋が当てられる予定との話である。)     

呉漢勤副館長 王府百年記念行事 グヌンサンノルブ王と王宮
北京→カラチン間、自転車踏査再現/資料袋と旗  グヌンサンノルブ王と王宮
下は喀喇泌(カラチン)王府鳥瞰図
喀喇泌(カラチン)王府鳥瞰図喀喇泌(カラチン)王府図
 

C.徳島県立鳥居龍蔵記念館との連携事業について
 今回の再訪で確認出来たことの中で旧カラチン親王府内で鳥居龍蔵夫妻についての再評価が進んでいて関連する事物の展示室を設ける気運が高まっていることである。
徳島県立鳥居龍蔵記念館と当王府博物館共に公的運営であるので友好連携するにも必ず両行政機関間で話し合いをして基本契約を締結する必要がある。
 展示室の広狭は別として徳島県立鳥居龍蔵記念館にある展示品の一部を定期的に貸し出すことも意義ある事業の一つと思われる。友好都市連携が出来れば人の往来も盛んになり思わぬ成果が得られるかもしれないが克服すべき今後の課題である。


[2] 6/6(火)巴林左旗(林東)遼上京博物館に王未想館長を訪問

 林東は契丹(Qidan)帝国(遼代)の開祖・耶律阿保機(Yelu Abaojiやりつ・あぼき*2)が首都と決め、ここ上京臨?府でハン位に就いたのが907年のことである。
 鳥居龍蔵はこの地を訪れたのが1908年でいろんな発見をして「考古学より見たる遼の文化」として学術論文を発表した日本人で最初の人である。その後 98年が経った今も上京臨?府跡の発掘調査はほとんど手付かずで城壁、宮殿の建物群跡が累々と横たわっていてひっそりと発掘調査の時期を待っている様であ る。この広大な臨?府遺跡のかたわらに設けられた宏壮な構えの遼上京博物館に王未想館長を訪ねる。
 昨年訪問した時には建設途上で今年4月頃完成予定と伺うと同時に電力事情が悪く停電で館内見学が出来なかった。
 今回再訪時も生憎く停電で休館となっていて、王未想館長も打ち合わせで留守であった。
急遽予定変更して開祖・耶律阿保機が葬られている祖陵へと向かう。
車は昨年訪問した白塔子慶陵(3王陵)の道程と同じく未舗装の悪路をかなりのスピードで目的地に向かった。舗装道路から入ること約40分で高山の奥まった所に祖陵があり、そこは人を寄せ付けない石塊に囲まれた異様な雰囲気の場所であった。

(*2) [872〜926]中国、遼(りょう)の初代皇帝。在位916〜26。廟号(びょうごう)は太祖。唐末の907年、契丹八部を統一してハン位につき、のち 皇帝となった。しばしば長城を越えて華北に侵入。西方の諸部族を征服するとともに、926年渤海国を滅ぼし、中国東北部からモンゴル高原を支配する一大帝 国とした。)
祖陵の近くとシラムレン川
     祖陵の近くで          シラムレン河で砂と水を体感する

  墓域に到着した頃に雲行き悪く激しい夕立となり急いで林東に引き返す。夕立は林東のホテルに入り王館長との夕食中も降り続き、約3時間に及ぶ大雨であっ た。王館長の言によればこの雨で電気工事が中止となり通電する可能性があるとのことで、通電すれば特別に博物館を見せましょうとの快諾を得る。
夜8時30分頃博物館から今通電したとの連絡があり、王館長の配慮で9時頃から約1時間ばかり特別見学が出来たのは、豪雨が幸いすると言う想定外のことで昨年成しえなかったことが1年ぶりに成就できた。
 この博物館は遼文化の粋を集めたもので色彩豊かな工芸品や昨年訪問した慶陵の東陵の壁画として描かれていた人物像・四季図の描写が写実的でその色彩が今 に残っていて印象的であった。又、学説論争があった東陵に葬られている被葬者が誰かを確定する哀冊石刻(墓誌)も展示されていて感動する。翌朝挨拶を兼ね て館長室に行くと役所の人達と打合せ中で、やはり停電していて工事はかなり遅れている様であった。
 鳥居龍蔵来府100年目に当たる2008年迄に特別展が出来る様アイデアを持ち寄ることを約して別れる。王館長は徐福にも関心があり、今度出版した『徐福さん』の本を贈呈した。
展示品の中には著名な王墓内の面の四季図などとは別に興味あるものを見つけた。

出土した碁石と石棺に描かれた北斗七星
      遺跡から出土した碁石       石棺の上に描かれた北斗七星(八星)

[3] [4] 6/7(水)巴林右旗博物館(大板)に立ち寄り石館長と青格勤副館長を訪問

 昨年七層八角仏塔の白塔と慶陵(遼3王陵)訪問時に大変お世話になったところである。今年8月には京大隊とテレビ朝日が共同で3回目の調査に入る予定とのことである。石陽館長の好意で同博物館を見て一路赤峰博物館へと向かう。
 赤峰博物館は鳥居龍蔵が紅山文化(*3)と名付けた東モンゴル地方の新石器時代の遺物を中心に展示されていた。ここの展示物を見ていると日本の縄文時代 で使用されていた道具類と全く同じである。石器類の源流がここで蒙古斑点を有する人達が道具類と一緒に日本に渡来してきたものと想像出来る。

(*3)紅山文化について (赤峰博物館に掲示されていた英文解説)
Phonshan Culture about 6000 years ago was a kind of economic culture relying mainly on agriculture and the husbandry and hunting subsidiary.

[5] 6/8(木)北京大学に呉茘明教授(女性)と夫君の友麒教授を訪問

 呉茘明教授は環境科学系の教授で戦中・戦後の一時期鳥居龍蔵夫妻の孫娘の鳥居玲子さんとの幼馴染の間柄で、今回の再会の予定が果たせなかったので写真等を受け取り往時をしばし回顧する。ご夫妻の案内で北京大学構内を散策後、考古博物館を再訪する。  

呉・楊先生夫妻、呉先生(書籍贈呈)
呉・楊先生夫妻と北京大学キャンパスで  呉さんに新著『徐福さん』を贈呈
                                   北京大学国際交流センターで
燕京大学附属中学校時代の記念写真
呉茘先生から玲子さんへ贈った写真
燕京大学附属中学校時代の記念写真
前列左端;呉茘明先生、三人目玲子さん
燕京大学(現北京大学)のシンボルを背景にして
『燕京大学人物誌』の表紙にある給水塔前で
池と共に燕京大学(現北京大学)のシンボル

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