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鳥居龍蔵の家族は如何に父を助けたか?
考古学・民族学の「巨人」鳥居龍蔵博士の足跡を内蒙古に辿る旅
No.2(2005年) 鳥居貞義
はじめに |
徳島が生んだ考古学・民族学の世界的先駆者鳥居龍蔵博士は、日本人として空前絶後の行動力で、中国遼東半島の調査を皮切りに、千島・台湾・中国南部・同
東北部・朝鮮・モンゴル・シベリア・南米に至るまで、その考古学的・人類学的調査結果は先駆的業績として再び各方面から見直されている。同時代には植物学
者の牧野富太郎博士、粘菌学の南方熊楠がおり、三偉人として知られる。 |
筆者とおきみさん おきみさんと長女 龍次郎さん おきみさん 左端は龍次郎さん撮影、その他は筆者が撮影(1953年、筆者が高校2年の時、東京にて) |
日 程 表 |
@ 7/2(土)関空→北京→(夜行列車)→赤峰 A 7/3(日)赤峰→旧カラチン王府→赤峰 B 7/4(月)赤峰→巴林右旗博物館→白塔子 C 7/5(火)白塔子(遼の慶陵(3代の皇帝陵)の見学) D 7/6(水)白塔子→林東(遼時代の上京) E 7/7(木)林東→南塔・北塔→真寂之寺 F 7/8(金)北京→関空 |
@ 北京→赤峰(夜行列車の旅)7月2日(土) |
2005年7月2日 関空から北京経由、夜行列車で内蒙古の赤峰に向かった。 |
赤峰駅にて 清代蒙古王府博物館まで快晴、快適な 縦文字はモンゴル文字 ドライブ。小休止・実はトイレ休憩 背後の車両で到着した。 左から岡本、鳥居、郭の各氏 |
A 赤峰→旧カラチン王府(喀喇沁王府) 7月3日(日) |
赤峰駅に着いた我々は、待機していた 李仏峰さん(蒙古系 SLフアン)運転のトヨタエースワゴンに乗り込み、今日宿泊予定の赤峰賓館に入り、取りあえず
シャワーを浴び身軽な旅行者スタイル(運動靴にリュック姿)に変身し、朝食を摂りながら4人で今日の打合せを行った。運転手の李さんは学生時代、陸上選手
であったらしくガッチリした体格で、機敏に活動してくれたので、今回の旅では写真撮影には大いに役立った。 |
清代蒙古王府博物館前にて 清代蒙古王府博物館内にて |
B 赤峰→巴林右旗博物館→白塔子 7月4日(月) |
赤峰を8時30分に発った車は、一路巴林右旗のある北部方面の大板鎮へ向かう。 |
・白塔について |
白塔と雲の関係を表すものとして「祥雲千変万化」の軸が展示所に架けられていた。 |
雲は千変万化するも「白塔は不動」である。 白塔は1988年〜1992年に大修理が行われ経典、漢方薬草など興味深い資料が多数発見された。これらの資料は内蒙古巴林右旗博物館に保存展示されてい る他、塔の近くでも小規模ながら展示されている。遠く回りには城壁が残されている他、近くには最近まで使われていたという井戸跡があった。白磁類や通貨の 破片は地表にも多くあった。この塔を管理している魏国強所長によると鳥居龍蔵は約700枚撮影したといわれているという。700枚と言う数字は鳥居龍蔵一 行が1回の旅に持ち運んだと言われている数量に符合する。 |
石,鳥居,岡本,青,李の各氏 朝日をバックにした白塔 2日間毎朝午前4時起床で、塔がシルエットになり太陽が五輪塔下部に重なるときを狙ったが雲がかかって失敗した。強風の日には風鐸の音が、そして鶏鳴が聞こえる。 |
写真左は白塔の最下段で撮影、周りはかなり傷んでいた。八角、七重の塔で約70m、最上部の屋根ではモンゴル相撲の力士が8人で鎖を引張って仁王立ちをしていた。 写真右は側面の拡大、表面がはがされ下から仏像(漢白玉)らしきものが現れていた。1988年大修理をするきっかけとなった最上部鉄塔の折れたものが屋外展示され、そこには契丹文字が刻印されていた。 |
D 白塔子→巴林右旗博物館→林東(遼時代の上京) 7月6日(水) |
白塔子でのいろいろな想い出を残して今日は巴林右旗博物館、林東へと向った。 |
王館長、鳥居、岡本、郭の各氏 何を語る契丹魂 頭の無い石像 遼上京遺跡石碑 |
E林東→遼上京の南塔・北塔→真寂勝景(寺)→赤峰 7月7日(木) |
林東の遼上京の臨?府城域に入る手前に南塔・北塔があり訪れた。 |
南塔 七層八角 北塔 五層五角 善福寺(真寂之寺)のある奇岩山 |
今
日は日本の七夕まつりの日である。私の住居地には平安時代に栄えた七夕文化の遺産が数多く伝承されている。中国は七夕の発祥地でありながら、文革以降ほと
んど忘れ去られていることは残念であると昼間、同行の郭さんに話していたところ夜隣室でTVを見ていた郭さんが今恋愛場面で七夕の話が出ていると飛び込ん
で来たのは嬉しかった。 |
おわりに |
人類学・考古学の巨人・鳥居龍蔵一家の足跡を辿る旅は7月初旬であったが、天候に恵まれ7月3日(日)のカラチン王府の帰りの車内で激しい夕立に遭った程
度で晴天で快適な旅だった。食事は毎回羊肉で、骨付きの大きなものを大型の良く切れるナイフで切り取って食べることであったが、肉の切り取りをしていた器
用でベテランの青さんが目の前で指を切ったのを見て自分でやるのは遠慮した。肉は柔らかく臭みもなかった。アルコール度数の高い(50度ぐらい)酒を一気
に乾杯する習慣はどちらから始まった風習かは定かではないが漢人と同じであった。我々はもっぱらビールで乾杯したが、清代蒙古王府博物館の職員が衣装を着
替えて歌を歌って歓迎してくれたときには強い酒を一気に飲み干した。 |
以下は参考写真:現地での交流風景 |
職員が衣装を変えて乾杯の歌で歓迎 石館長と乾杯 |
現地で保管されているおきみさんの資料 持参した京大隊の報告書を見る職員 |
草原は山間にあり、遠くに羊や馬の放牧が見える。 |
早朝散歩の豚が突然現れ邪魔をする SLに遭遇 |
清代蒙古王府博物館で突然頼まれて何年振りかで筆を持ちました。 |
鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』より |