鳥居龍蔵の足跡を訪ねる旅
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鳥居龍蔵の家族は如何に父を助けたか?
考古学・民族学の「巨人」鳥居龍蔵博士の足跡を内蒙古に辿る旅
No.2(2005年)          鳥居貞義

はじめに

 徳島が生んだ考古学・民族学の世界的先駆者鳥居龍蔵博士は、日本人として空前絶後の行動力で、中国遼東半島の調査を皮切りに、千島・台湾・中国南部・同 東北部・朝鮮・モンゴル・シベリア・南米に至るまで、その考古学的・人類学的調査結果は先駆的業績として再び各方面から見直されている。同時代には植物学 者の牧野富太郎博士、粘菌学の南方熊楠がおり、三偉人として知られる。
鳥居龍蔵の業績はこれまでは主として彼が長年奉職した東京大学を中心にフォローされていたが、近年京都大学の研究グループが内蒙古の慶陵(三代皇帝の墳 墓)を中心にフォローしている。今回の我々の調査旅行の目的は鳥居龍蔵博士の足跡を辿って京大隊が調査した慶陵と白塔を自分たち(鳥居龍蔵を考える会)の 目で確かめようということであったが、私、個人は当初からおきみさん(親戚では市原キミに因んできみ子夫人のことをおきみさんと呼んでいる)がカラチンの グンサンノルブ王に招聘されて、女学校で教鞭をとったことが現地でどのように評価されているか、又、鳥居龍蔵の慶陵調査において家族が果たした役割がどの ようなものであったかを実地に調べることと決めていた。
 私は学者では無く、松下電工という会社を10年前に卒業した元サラリーマンであるが
高校2年生のとき以来おきみさんに可愛がられて、おきみさん没後は龍次郎さんと親交を深めていたが、現在鳥居龍蔵の偉業を親戚と言う立場からフォローする ものがいなくなったので、親戚を中心に「鳥居龍蔵を考える会」を立ち上げて鳥居龍蔵の業績をフォローするべく活動を開始し、先ずは絶筆、絶版になっていた 『ある老学徒の手記』を私費で復刊すると共に大阪、東京、北京で、それぞれ「鳥居龍蔵を考える会 in大阪、東京、北京」を開催し、市井の鳥居龍蔵フアン との会合を開くと共に、北京では安志敏先生、唐進倫先生などの孫弟子を訪ねて燕京大学時代の鳥居龍蔵一家について取材した。
鳥居龍蔵博士の家族は如何に父を助けたか?と言う点を分かりやすくスポーツに例えれば、野球のイチローやレスリングの京子は父が成し得なかったことを父の 意を体して、父の夢を実現するためにハードなトレーニングに耐え謹厳な日常生活を守って行動している。鳥居龍蔵の家族の場合は父親の為にきみ子夫人も含め て、家族全員が進んで父親に自分の生涯を捧げたといえる。今回の旅はそのことにスポットを当てて鳥居龍蔵を支えた家族のあり方を現地で確認すると共に鳥居 龍蔵自身の研究スタイルに迫りたいと思う。

おきみさんと龍次郎さん
 筆者とおきみさん  おきみさんと長女   龍次郎さん     おきみさん
左端は龍次郎さん撮影、その他は筆者が撮影(1953年、筆者が高校2年の時、東京にて)

日 程 表
@ 7/2(土)関空→北京→(夜行列車)→赤峰
A 7/3(日)赤峰→旧カラチン王府→赤峰
B 7/4(月)赤峰→巴林右旗博物館→白塔子
C 7/5(火)白塔子(遼の慶陵(3代の皇帝陵)の見学)
D 7/6(水)白塔子→林東(遼時代の上京)
E 7/7(木)林東→南塔・北塔→真寂之寺
F 7/8(金)北京→関空

@ 北京→赤峰(夜行列車の旅)7月2日(土)

 2005年7月2日 関空から北京経由、夜行列車で内蒙古の赤峰に向かった。
北京到着後、今回の旅のコーディネーター郭仁太氏の出迎えを受けて、21時19分発の夜行列車までの時間を利用してクラウンホテルで林暁兵氏、阿部仁氏と滞在中の打合せをした。
 林暁兵氏は徐福研究仲間で旧知の間柄、今回会う目的は私が編集中の『伝承地に見る徐福像(仮称)』に中国徐福会の李連慶会長に祝辞をお願いし、7月7日赤峰からの帰路、李連慶会長にお会いするアポイントをお願いした。
 阿部仁氏は四国放送出身のジャーナリストで現在は北京に駐在し、中国国際広播電台日本語部で活躍しておられ、鳥居龍蔵の業績についてもフォローしておら れる。初対面であったが、事前にメール交換していたので、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の現状について情報を提供し、今後のことについて話し合った後、赤峰 からの帰路、再会を約して関係者一緒に夕食後、赤峰行きの夜行列車に乗るためにタクシーで北京北駅に向かった。
 近年、中国の沿海部は急速な発展をしており、ビルの大きさ近代化は日本を凌駕するものが多く見られるようになっている。北京北駅は内モンゴル赤峰方面行 きの駅となっており、首都である北京の北駅はどんなであろうと期待して行ったが、そこには10年以上前の北京が残っていた。タクシーは駅よりかなり離れた ところで、道路に遮断機があり、そこで降ろされた。赤峰という看板ばかりが目立つ暗がりの道を改札に向かってかなり歩いた。改札はあるものの列車に乗り込 むのはすぐ横手からで出発時間に近くなると列を作るでもなく列車に乗り込んだ。一般座席は満席であったが、われわれは上下4人ベッドのコンパートメント で、ベッドライトが故障で消灯しないことを除いて乗り心地はそれほど悪くはなかった。久しぶりにガタン・ゴトンと線路の継ぎ目を感じさせる列車に乗り、約 400キロを10時間かけて徐々に目的地に近づく旅は悪くはなかった。当初は北京〜赤峰間は空便で計画したが、不定期でキャンセルになることも多いという 情報で、夜行列車に変えたが、一気に現地に飛び込むよりも、結果としては良い選択であった。それに3000円という運賃の安さもお金の値打ちを感じさせて くれた。
列車は途中何度か駅で停車したが、そのとき以外は朝日が射すまでは全く暗闇の中を走っていた。朝方になって窓外を見ると意外と起伏のある丘陵地を走ってい た。目を凝らして見ていると山からの雪解け水で出来たと思われる地震後の断層のような谷筋がいくつも有り、沢沿いに野菜などが植わっている程度で家屋も少 なく、時おり遠くに馬などが見受けられた程度であったが、内蒙古の玄関口の赤峰駅に近づくと色とりどりの色彩家屋(土煉瓦が多い)が多くなり、赤峰駅周辺 は近代的ビルが立ち並び又、目下建設中の建設現場も多く自治区への玄関口の賑わいを呈していた。約10時間、久しぶりの夜行列車の旅であった。翌朝7時 17分、ほぼ予定通りに赤峰市駅に着いた。赤峰駅は北京北駅に比べて大きく、早朝にもかかわらず人で大混雑していた。「赤峰」の看板文字と共に縦書きのモ ンゴル文字が目に付いた。その後、内蒙古ではどこへ行っても漢字とモンゴル文字が併記されていた。赤峰の地名の由来は、ここはもと紅山文化が栄えたところ で新石器時代の遺跡から石器類が多数見つかり、赤い山に因んで付いた名といわれている。鳥居龍蔵は、この赤峰を中心に遺跡の発掘調査を行っており多くの発 見をして、それらを「満蒙の有史以前」論文にまとめて東京帝国大学から文学博士号を取得している。

赤峰駅、清代蒙古王府博物館への道
  赤峰駅にて          清代蒙古王府博物館まで快晴、快適な
縦文字はモンゴル文字      ドライブ。小休止・実はトイレ休憩  
背後の車両で到着した。       左から岡本、鳥居、郭の各氏  

A 赤峰→旧カラチン王府(喀喇沁王府) 7月3日(日)

  赤峰駅に着いた我々は、待機していた 李仏峰さん(蒙古系 SLフアン)運転のトヨタエースワゴンに乗り込み、今日宿泊予定の赤峰賓館に入り、取りあえず シャワーを浴び身軽な旅行者スタイル(運動靴にリュック姿)に変身し、朝食を摂りながら4人で今日の打合せを行った。運転手の李さんは学生時代、陸上選手 であったらしくガッチリした体格で、機敏に活動してくれたので、今回の旅では写真撮影には大いに役立った。
 赤峰市街から旧カラチン王府までは南西に約70キロの位置にあり、9時前に出発した車は、繁華な市街地を通り抜け、大きな川の橋を渡ると右手に建設中の 大型建物の新市役所、工業団地の建設現場を見ながら、やがて北京でも少ないと思われる片側3車線で、最近出来たばかりの高速道路に入った。建設、土木の技 術と拡張ブームは中国の僻地にも及びつつあるという印象を強くもった。車は快適に一路旧カラチン王府へと向った。
 途中の景色は、この時季、緑一色で日本の田園風景を少し大きくした程度で、私共の想像するモンゴルの大草原やモンゴル家屋のパオは見当たらなかった。
高速道路を出て10分ほどで右折すると、小高い山に抱かれるように集落があり前面には川が流れ、周囲には緑豊かな樹々が生い茂り、静穏の雰囲気を保っているところが旧カラチン王府であった。旧カラチン王府は5王府の中で一番大きく繁栄したところである。
 前庭の広い中国清代蒙古王府博物館で呉漢勤副館長(内蒙古人)の出迎えを受け、館長室に案内された。石陽館長(漢人)は不在だったので、呉漢勤副館長と 面談し訪問の趣旨を伝える。後で分かったことであるが、内蒙古では博物館などの館長は漢人で、副館長以下は蒙古系であった。石館長は赴任後、未だ2年とい うことだった。中央から派遣されたトップの漢人は短期で交代するようだ。
ここ旧カラチン王府は、鳥居龍蔵・きみ子夫妻が活躍した記念すべき場所である。
 カラチン右旗(旗は県くらいの地域単位)は進歩的な王が多く出たところで、殊に第15代のグンサンノルブ王は1871年に同王府内で生まれ、当時の蒙古 で最も進歩的な人であったようだ。王妃は清国理藩院総裁親王の妹で王と同じくすこぶる進歩的な人であったという。これらの性格が鳥居龍蔵・きみ子夫妻と相 通ずるところがあったように思われた。1903年に大阪で開催された第5回・内国勧業博覧会にグンサンノルブ王ら若手指導者が明治政府から招待され、そこ で見聞したことが国の建設に大いに役立った。グンサンノルブ王はこのときが初めての外遊で、大阪、東京、神戸、京都などを訪れ日本の近代化の様子を目の当 たりにして大きな衝撃を受けたという。即ち、内モンゴル社会の近代化、改革の加速化及び軍事力の必要性を痛感し、それらの基礎にあるのが教育であることを 感得したという。帰国後、いち早く教育改革に取り組み、1902年に崇正学堂(男子校)、1903年に、(イクセイ)女学堂を創設した。このとき日本から 女教師として招聘されたのが、初代総習(教頭)に河原操子(2年間)、2代目として鳥居きみ子(1年間)であった。鳥居龍蔵も崇正学堂の教頭として 1906年春から教壇に立った。このときから数えて来年(2006年)が丁度100周年に当たるので、記念行事を企画しているが、鳥居龍蔵夫妻に関する資 料が少なく、日本からの寄贈を待ち望んでいる。この機会に鳥居記念博物館が清代蒙古王府博物館との交流を深めることを提案したい。
 『ある老学徒の手記』によれば1906(明治39)年の2月頃にカラチン王府より初代河原操子女史の後任として、なるべく夫婦ものがよいと言うことで正 式招聘の話がでて、早速快諾をすると二人は郷里の徳島に帰り、長男の龍雄を実家の母と妹に預け、3月には先ず、きみ子夫人が単独で蒙古に赴いた。きみ子夫 人を北京に出迎えたグンサンノルブ王と王妃は、ラバ轎(きょう)の一行に加わり、北京を出発しカラチン王府到達まで9日間をともにしたという。カラチン王 府の緯度は日本の北海道函館付近に当り、春まだ遠い3月の長城越えの旅は大変だったようだ。研究中の仕事を抱えていた龍蔵は1ヵ月後の4月にカラチンへ出 発している。
 鳥居龍蔵が蒙古に来た目的について『ある老学徒の手記』の中で、蒙古人に親しみ、文化的に彼等を教育すると共に、自分の専門とする人類学、考古学を、こ れから研究せんがためである。殊に、今自分の研究しようと思っている蒙古の有史以前=石器時代と東胡=契丹(遼)の遺跡遺物の探査を成さんがためであると 記している。正に人類学、考古学者としての学問的原点がここにあったと云える。
 鳥居夫妻にとって記念すべきこの地を99年ぶりに訪れた私共は、呉副館長に当時の教育現場の様子や授業風景などを予め写真で見せてもらい概略説明を受け る。次いで、研究論文集や最近の鳥居龍蔵夫妻に関する発表論文等の説明の中で、日本の東京外国語大学大学院に留学しているウ・ムングンゲレル氏(女子学 生)が2004年12月に旅の文化研究所から発行した「モンゴル人子女教育に貢献した2人の日本人女性」の小論文を発見する。早速、借用し、郭さんの協力 を得てコピーを入手した。又、2006年は鳥居龍蔵夫妻来府100周年に当るので王府内に記念室を開設すると共に、北京から王府までラバ轎(きょう)で9 日間を要したことに因んで、同じ旅程を呉副館長自身が自転車で踏査する計画を持っているとのことであった。
 ここの王府の建築は、蒙古王府中で最も豪壮な瓦葺き建築で、敷地が広く主として平屋で、日本の神社仏閣的な趣があり、花壇、庭付きの10数棟から構成さ れている。たっぷり時間を掛けたモンゴル形式の昼食後、呉副館長に王府博物館を案内して頂いた。王府内に入ると色鮮やかなモンゴル衣装に着飾った野外の吹 奏楽団(9人編成)の歓迎を受ける。王執務室、王一家の生活の間、学問所、参議院の間、孔子の間、旧鳥居龍蔵夫妻宿舎であったと思われるところ、旧満州時 代の間などの説明を受ける。来年は鳥居龍蔵夫妻展示室が出来る予定であるという。

清代蒙古王府博物館にて
清代蒙古王府博物館前にて       清代蒙古王府博物館内にて

B 赤峰→巴林右旗博物館→白塔子 7月4日(月)

 赤峰を8時30分に発った車は、一路巴林右旗のある北部方面の大板鎮へ向かう。
ごく最近完成したばかりの一直線に伸びた高速道路の両側には、植えたばかりの未だ小さなポプラの街路樹が続き、すこぶる快適なドライブであった。このあた りは小高い山が続く丘陵地帯で尾根筋・川筋に沿って農民達の集落があり、トウモロコシらしき野菜畑が遠望された。約3時間で巴林右旗博物館のある大板鎮に 着き、石陽館長と青格勤副館長(内蒙古系)を訪問し、会食を共にしながら白塔子の慶陵(聖宗、興宗、道宗の三王陵)訪問の打合せを行った。
博物館見学は後日にして一路白塔子へと向かう。幾つかの峠を越え、やがて大きな河(シラムレン河)を渡ると西側が山、東にシラムレン河の流れをみる形で進 んだ。この河沿いを遡ると遼三代の都であった慶州(白塔子)に着くはずである。2時間ほど走った頃、車の前方に忽然とあの麗しい姿の白塔が見えるではない か。慶州白塔子に到着したのは午後4時であった。招待所で投宿の準備をして、早速、車で約5分のところにある慶州古城の白塔を真近で見学することにした。

・白塔について
 鳥居龍蔵夫妻が厳寒の中で防寒服に身を包み、寒さに顔を染めて立っている写真は正に探険家としての鳥居龍蔵を印象付ける代表的写真である。
レンガ造りの建物を抜けると忽然と現れたのはエジプトでピラミットに出会った時砂漠の中にあるイメージが壊されたのと同じ印象で、白塔は大草原の中には無 かった。これは私情であって、遼(契丹)三大王を祭る慶陵の供養塔として王宮内に建てられたのであれば、大草原の中に独立していると考える方が間違ってい たのだろう。
 白塔博物館にあたる遼慶州文物管理所の魏国強所長(内蒙古系)の出迎えを受けた。魏所長は白塔の改修調査時に委員として参画した人で、現場の人らしく七 層八角仏塔(白塔)の内部のこと、展示遺物のこと、慶陵東陵より発掘された遺物のこと等について詳しく説明があり大いに参考になった。
 ここ白塔子(慶洲)は、契丹(遼)王朝で一番栄華を誇った時期(10世紀末〜11世紀)の3代王室(聖宗、興宗、道宗)が置かれたところである。旧王城 跡には、現在はこの秀麗な白亜の七層八角仏塔(約73メートル)が残るのみである。これは所謂供養塔である。
城域は東西1.4キロ余り、南北1.8キロ余あったとされる。白塔の東側に建物跡の基壇が多く残っており、礎石、瓦、磚、陶器片などが確認出来た。われわ れは白塔の撮影に忙しくしていたが、運転手の李仏峰さんが容易に収集した陶器片、瓦片、古銭などは地表から集めたものだという。
 この白塔は古城内の一角にあった聖斉寺のもので七層八角仏塔自体は約1000年前の建物で、最上階には荘厳な仏舎利塔と鏡などを備えた仏教建築である。 塔身には、神将像、陀羅尼経幡、羅漢像、胡人群像などの彫刻がほどこされている。材質は白い石材(漢白玉石)から出来ている。
この白塔の特長として八角塔の角に甍(いらか)状の風鐸がさがっており、風が吹くと一斉にチリン、チリンと聞こえる音色を奏でていた。神々しく荘厳な気分 にさせてくれるから不思議である。もうひとつの特長としては八角塔の最上階の宝塔部と各階入口上部に取り付けてある鏡である。朝陽、夕陽、日光に照らされ るとその部分だけが一斉にキラキラと輝き極楽浄土の趣をかもしだしていた。ここでは朝焼け、夕焼け、雨天、快晴とにかく思う存分写真を撮った。
私共は憧れていたこの光景を目の当たりにして、夕陽に映える白塔、朝陽に映える白塔などいろんな角度から撮影した。かつて一つの被写体にこれほど多くの シャッターを切った覚えがないほどカメラに収め記録に残した。デジタルカメラという文明の利器のお陰である。それと同時に、その都度われわれの意を体して 運転手が車を夕陽、朝陽の度に逆位置に又、雲間から陽を覗かせる度に車を走らせてくれた。ここでは日ごろ、日本や欧米からのSLフアンを乗せてSLを追い かけているという李仏峰運転手の活躍が大いに役立った。
100年前、写真係りを務めていた次男の龍次郎さんが朝夕どんな思いで三脚を立てシャッターを切ったのであろうか。その苦労に思いを馳せた。
さて鳥居龍蔵夫妻は1908年にこの地を訪れ、東モンゴルに於ける一番重要な契丹遺跡と位置づけ、調査した最初の日本人である。
学術未調査地であった慶州城内には多くの遺物が残っていたとみえ、鳥居龍蔵は多くの発見をしている。聖宗崩御後のことを記した八角石幡碑文、八角陀羅尼経 幡の二つの碑刻は最も重要な発見であった。その他、建築遺構の礎石、石仏、瓦、磚、装飾品、古銭などの発見をし、城内の簡単な測量も行っている。

白塔と雲
白塔と雲の関係を表すものとして「祥雲千変万化」の軸が展示所に架けられていた。
 雲は千変万化するも「白塔は不動」である。
白塔は1988年〜1992年に大修理が行われ経典、漢方薬草など興味深い資料が多数発見された。これらの資料は内蒙古巴林右旗博物館に保存展示されてい る他、塔の近くでも小規模ながら展示されている。遠く回りには城壁が残されている他、近くには最近まで使われていたという井戸跡があった。白磁類や通貨の 破片は地表にも多くあった。この塔を管理している魏国強所長によると鳥居龍蔵は約700枚撮影したといわれているという。700枚と言う数字は鳥居龍蔵一 行が1回の旅に持ち運んだと言われている数量に符合する。
白塔前での記念写真、朝日を背にした白塔
石,鳥居,岡本,青,李の各氏        朝日をバックにした白塔
2日間毎朝午前4時起床で、塔がシルエットになり太陽が五輪塔下部に重なるときを狙ったが雲がかかって失敗した。強風の日には風鐸の音が、そして鶏鳴が聞こえる。
白塔レリーフ
写真左は白塔の最下段で撮影、周りはかなり傷んでいた。八角、七重の塔で約70m、最上部の屋根ではモンゴル相撲の力士が8人で鎖を引張って仁王立ちをしていた。
写真右は側面の拡大、表面がはがされ下から仏像(漢白玉)らしきものが現れていた。1988年大修理をするきっかけとなった最上部鉄塔の折れたものが屋外展示され、そこには契丹文字が刻印されていた。

C 白塔子(遼の慶陵・3代王陵墓)の見学 7月5日(火)

この日も朝4時起床で4時30分に日の出の朝陽に映える白塔撮影に向う。日の出時刻に生憎太陽に雲がかかり光輝く白塔が撮れず残念。朝食後、いよいよ慶陵のある慶雲山へと向かう。
慶陵へは軍の払い下げと思われるメーカ不明の4輪駆動のジープに乗り換えて出かけることになった。案内役も巴林右旗博物館の青格勤副館長(モンゴル系)に 代わった。運転手も代わり、これで道の険しさと迷路であることを感じて覚悟した。青副館長が乗り込んだので、4人乗りのジープに郭さんを入れて5人になっ た。昨日までは中型のマイクロバス(トヨタ製)に4人(鳥居、岡本、郭、運転手)でゆったり乗っていたのと乗り心地は大違いである。龍蔵博士一家が出かけ た時とは全く比較にはならないが、これで少しは苦労が味わえるなと思った。しかしダッシュボード下の配線が丸見え、しかも切り替えレバーからミッションま でも丸見えと言った旧式のジープ1台で、途中で故障したら無事帰えれるのだろうかと不安を感じた時、運転席の横には2本のドライバーと金槌が置いてあっ た。
道路事情は轍が深く残っており、上下左右に大きく揺れながら、更に樹木の枝を車で払いながら走った。勿論エアコンは無かったが、暑さはあまり感じられな かった。木の枝とアブが絶えず車内に飛び込んで来るので、暑さや上下左右のショックを感じている暇も無かった。水も、橋の無い川(シラムレン河やチャガム レン支流)を渡る経験は初めてで、その時が最もよく揺れた。更に時々水が流れている川を勢いをつけて、エンジンを唸らせながら渡る時には危険と言うか、エ ンストしないか、大丈夫かの危機感があった。運を天に任せるしかない。後で判かったことであるが、こんな山奥でも携帯電話は問題なくつながっていた。ジー プは嵐の中の小船のような揺れようであった。最初は大草原を走るものと思っていたし、龍蔵博士が先の尖った三山のスケッチを残しているのを見て異様に感じ ていたが、これが龍蔵博士がスケッチした山と分かる風景があった。草原の中でこのような山に出会うと多くの草原の景色よりもあまり見かけない先の尖った三 山をスケッチしたくなるのは人情であろう。慶雲山に向かって右手側にあるのが東陵遺跡(興宗陵)である。それでも1時間余の苦闘で、東陵の麓に着いて、こ こからが青格勤副館長の誘導で道無き道を徒歩で登ることになった。実はこれが結構大変であった。ジープを降り低い灌木をかきわけ約30分程登ると、そこが 東陵遺跡であった。青格勤さんは我々の年齢にお構いなく、かなりの早足で、時々熊を追い払うような声を遥か前方で発しながら進み、我々がようやく追いつく と直ぐに進み始めると言う具合であった。慶陵三陵の内、東陵だけが比較的盗掘を免れているとの龍蔵博士の記述に、此処だけは見ておかなければとの思いで 登った。結局、大規模な盗掘にあい、大きな岩、大きな盗掘口が見られるだけが陵墓を確認する唯一の手段であった。そこは青格勤副館長の案内が無ければ到底 見つけることが出来ない場所にあった。それでも途中には名前の知れない多くの花が咲き乱れており、陵内の四季のスケッチを思い出させてくれた。帰路途中で 小休止すると言う。ジープにトラブルかと心配していたら、急に青副館長といつの間にかジープに伴走していた2台のバイクの連中が丘の方に駆け上がって行っ た。日暮れ近くなっているのに何事だろうと心配していたら花摘みをしているという。30分近く経って籠一杯の花を摘んで帰って来た。食事時になって判った ことだが、先ほど摘み取った花を煮た料理が出た。日本でも菊をはじめ、花を食材にした料理はあるが、このときの花が最も美味であった。
ここに鳥居龍蔵一家が訪れたのは1930年〜1933年のことである。
先ず東陵(興宗王墓)に入り、慶陵壁画を発見している。写実的な人物画、美しい四季山水画などの壁画の色彩のあざやかさに感嘆しながら、内部の遺物の調査、陵墓の測量、壁画の精査を行い、後に次女の緑さんが模写も担当している。
我々は4輪駆動車に乗るなど現代の調査手段を享受しての訪問であったが70年前の調査旅行の実態がどのようなものであったかについて、次女のみどりさん (緑子)が「父の研究を助けて満蒙へ」(昭和9年3月科学知識)に父から同行を許されたときの喜び、壁画をスケッチ出来ることの喜びと共に、想像を絶する 困難を克服するための努力と家族の役割分担などが詳しく書き記されている。読者に是非読んで頂きたいので、敢えてここに抜粋し、この紀行文のタイトルとし たことの意義を感得して頂ければ幸甚である。
  

鳥居龍蔵の家族は如何に父を助けたか?
「父の研究を助けて満蒙へ」―陵墓壁画模写の十五日間―  鳥居緑子

私の小さな半生の願いが叶い、父に従って遥々、小巴林蒙古地の興安嶺中にある遼代陵墓の調査に、一緒に行くことが許されました。その陵墓の内では、私が多年あこがれていた、四季の山水を描いた美しい壁画を見ることができました。
これは私にとって無上の喜びで、壁画を模写することの嬉しさに、これほど責任を覚えたことは、未だかつてありませんでした。
 この調査旅行は、父の仕事を聊かなりとも有益にしたいと願って、一家族が心を一つにして出かけました。父を中心として、弟の龍次郎は、主として写真と拓 本を、私はスケッチに模写、母が測量、日記、通譯、会計その他の煩わしいこと一切を引受けました。貧しい旅ながら皆ほがらかに、好きな研究に没頭すること ができたのでした。炎天の下にも、凍った土の上にも、時間を忘れ、淋しいふところも忘れて、調査の総てに興味ふかく、一意、父の研究の助手として一日の休 養もなく仕事に熱中いたしました。
 林西からは西烏珠穆沁蒙古の王府に行き、かの名高い塩の湖も見学しました。特に西烏珠穆沁蒙古では、純蒙古の風俗をみることが出来ました。曠漠たる草原に、馬の大群が放牧されているなど、見るもの聞くもの皆珍しい事ばかりで、色々土俗のスケッチなどにも忙しい。
 林西に帰ってからは、大車二台と苦力厨子一人を雇い入れ、その外一ヶ月分の食料品の買入れもいたしました。満州兵十数騎に護衛されつつ、林西の北二百支里の所にあるチヤガンサバラガ(白塔子)に向いました。
 小巴林蒙古の淋しい村から村へと、蒙古人の住家に宿り、朝は有明の月を見ながら、夜は月の光で進みつつ二日で白塔子村へ到着しました。
 此所には遼代の慶州城の土城があり、城中には当時の八角・七重の塔が残っています。私達は城中の喇嘛僧の宿房に宿りました。
 その夕暮、白塔は美しい入日を受けて、天地をつなぐ白い夢の柱のように、光の中に浮んで如何にも崇高に見えました。
 白塔子の調査は二日で終りました。さて、これから北方数里の所、興安嶺山中のワールマンハの陵墓へ向いました。村より牛車十台を雇い、食料、寝具、炊事 道具、テントその他の荷物を満載して出発しました。此所からは蒙古兵のみ五名を従えて、谷間のような暗い道や、マンハ(砂山)の間を登って行きます。
 白塔子で龍次郎と親密になった喇嘛僧が、龍次郎のために自分の乗馬の一頭を連れて来て、二人仲良く轡を並べて、先に馬を駈けさせて行く。
 やがて日が沈む頃、興安嶺山中の目的の陵墓に到着しました。
 母は早速、蒙古兵達を指揮して、なるべく平坦な地点を選び、東京から持参のテントを張らせました。その中に総ての荷物を配置よく並べ、アンペラを敷いたり、テントの中央の土を掘り、石を拾って囲炉裡を造らせるなど、暫しの露営の宿は出来上がりました。
 父は喜びのあまり疲れも忘れて、早や薄闇の迫る柏の林をわけて陵墓の方へとかけ出してゆかれました。龍次郎は喇嘛僧と二人で、とっくに陵墓の中に這入っていました。
 斯くて私共は、この日から蒙古兵五名と寝食を共にして、陵墓の研究のために、テントの中で野宿を始めたのでした。
 此所から陵墓までは約五町の上りで、谷間の水汲みには、尚十数町の下りなのでした。
 人里遠く離れた山中のテント生活も、私共には非常に楽しいものでありましたが、その夜半から大吹雪になって終って、その翌日も翌日も吹雪は止みそうもな い、広い天地に唯一つの私達のテントは興安の峯颪に吹き飛ばされはしないかと、夜通しテントの中で柱につかまって過したこともありました。
 こんな時は、外に出ると呼吸するのが苦しい。さすがの蒙古兵達でさえ、囲炉裡に焚く枯木を集めに、外へ出ることを恐れている。それなのに、龍次郎は、大 きな木槌を持って吹雪の中へ飛び出して行き、杭を全部注意深く打ち直したり、ぐらつく中央の柱に太い綱をかけたり、一人で活動して私共に心強い思いをさせ てくれました。
 後で聞けば、山の麓の方では雪も降らない上天気であったとのことです。思うに、この山の上は、過去にも未来にも、人の住む所ではなく、浮世からは程遠い 聖地なのであろうと思われました。三日目位から波の寄せては返す如く、少しずつ吹雪は遠ざかって行きました。それでも父と母とは着いた翌日から、弟と私を テントに残して、吹雪の中を陵墓へ調べに行かれました。いつもながらの熱心さに、私は研究の尊さを感じました。
 陵墓は八百年以上昔の、遼の時代の皇帝の御陵であって、各々谷間をへだてて、東陵、中陵、西陵と存在しています。中陵は遼の聖宗、東陵は興宗、西陵は道宗の御陵であって、いずれも屹立した岩を目印の様にその麓の中腹に、土中深く造られてあります。
 其中央に遼の聖宗皇帝、右の嶺に興宗皇帝、左の嶺に道宗皇帝が各々同様の形式で葬られております。聖宗と道宗の陵はすっかり荒廃しつくして、只形だけを 留めているのみですが、興宗皇帝の陵墓(東陵)内には、幸いに壁の漆喰の上に描かれた、其の時代の肉筆の壁画が其儘に残されている、之が父の研究に大変貴 重なものでした。
 ここは五、六年以前に、父母が調査に来た時は、大抵、写真に撮ったのでしたが、その時マグネシウムの不足のために写せなかった、それを今度は龍次郎が引 受けて写真に撮り、尚殘されたこの得がたい遼代の肉筆の景色や人物、其他花鳥などを私が模写することでした。陵墓の入口は凍った土で埋まって、一尺余り開 いている口から這い込まなければならない、そしてまるで幽界の如く静まりかえった深い闇の中に、大小の円形の室がアーチ形の廊下で続けられ、目的の、四季 の山水を描いた壁画は、中央の大円室の四方の壁に残っています。蝋燭をかざして、その一つ一つを父は熱心に説明されるのを聴きながら、想像にあまる雄大さ にうたれて、私はただ言葉もなく壁画に見入ったのでした。
 天井には、濃い朱・紅・緑などで描かれた装飾紋様を見るだけでも、昔の人のすぐれた技術が、今からは考え及ばない位、精密な心組みであることにおどろかされるのみです。
更に入口から廊下の両側の壁と左右の小円室には、等身大の人物が並べて描かれていて、これらは当時の風俗と色を現わしています。
これは彼の有名な墨絵として伝わる南宋画の前の時代のもので、世界の内に残された唯一の北宋画の肉筆であろうと父は話してくれました。北宋の画題や画人の 名は今に文献に残っていますが、絵そのものをほとんど見ることはむづかしい。時代は我国の藤原時代で、それに画風も当時の大和絵に似通う点もあるように思 われるので、非常な興味を持って私は一筆毎に注意深く、模写に熱中いたしました。
私達の貧しい用意には、素晴らしい光線をとる電池などを求めることはできない。林西で石油ランプ一缶を買ってきましたが、途中大車の動揺が激しい為に破損して、石油は皆流れてしまった。しかたなく蝋燭を立ち並べ、之によって、光を取ったのでした。
壁画は縦一丈二尺横一丈位で、之を縮図することとして、先ず全体の墨線を模写し、其上に樹木、草、動物、鳥、と言う様に描き、細かい松の葉一本も、描きも らさぬ様に注意を払いました。龍次郎は毎日陵墓内の空気をゆるがせて、マグネシウムをたいては撮影していますが、煙が室から出るまでは、他の室を写さなく てはなりませんでした。
 朝まだきに母は先に陵墓内に入って、焚火をして室を少しでも暖めたりして、それから私は六時頃父に送られて陵墓に至り仕事を始める、昼になれば、蒙古兵が迎えに来てテントへ帰って蒙古茶を飲みます。夕方は母が食事の用意が出来た頃迎えに来られる。
 かくて終日太陽の光を見ることは稀で、陵墓内で好きな仕事に夢中になって居るといつ日が暮れたかも知らないでいるのでした。夕方母にうながされて陵墓を 出て見ると、まるで遼代の陶器、均窯のような色の空に夕月が浮かんでいる。そして毎日柏の枯木の繁った中を、絵の具箱をさげて、テント目指して駆け下りて きます、私どものテントでは貧しいながら、温かい母の心づくしの晩餐が待ち構えております。
父はいつも私達と共に零度以下の地を踏んで立ち尽くし、私が仕事をしている傍らで、注意深く絵の進行振りを見たり、見えない部分に蝋燭をかざして下さった り、又弟が暗闇の中で写真のピントを合わす時も、必ず父が蝋燭で壁面を照らして下さいます。陵墓内の寸法も母が先年つぶさに測られているのを再び又精細に 計りなおしておられます。之も父が巻尺を持って手伝い、寸時も休まず少しのつかれも見せない、父の仕事に対する熱心さに敬服しました。
 温かい心に包まれて私達の仕事は着々と捗取って行く。只私の困ったのは絵の具の溶き水が、瞬く間にバリバリに凍ってしまう事で、焚火の中から燠を取り出 して、幾度も温めつつ色を溶いては、紙面に描くのに中々時間を費やした。急ぐ時は筆の穂先に凍りついた絵の具を、口の中にふくんで溶かしたりなどもしまし た。
 九日目に漸く秋の景色を全部模写し終り、直ちに人物の模写に移る。等身大の人物で、固を能く現してスケッチされたものとおぼしく、まるで当時の人と向い 合って居る様な気持ちになってきて、之等の契丹人が私の模写して行く手許を見つめて、何か呼びかけている様な感じになり、ふと答えるつもりで振りむくと、 誰も居ないで、只一人私だけが広い陵墓の中で、立並ぶ壁画の人物の前に、淋しく立ち尽くしているのでした。
 人物は私としては描きなれている仕事だし、色も割合に簡単であったので、壁の人物一人を一日で描き上げては次の人物に移ってゆきました。父は相変わらず 懸命に筆の運びをみて、私の気づかない所をよく注意してくれます。多くの人物の外には春、冬の中から草花類其の他を部分的に、実物大に写し取りました。
 私自身に取りましても此壁画の模写が非常に有益なので、秋の次に春を模写したいと思いましたが、折悪しく此処から東方十里程の所に、胡匪が二百出たの で、早く山を下る様にと、蒙古兵の隊長から再三使いをよこしますので、残念ながら中止することにしましたが私はもっと写したい点が沢山あったのでした。
天気の良い一日、なつかしいテントを畳み荷物をまとめて、迎への牛車十台に積み、十七日目で白塔子へ帰ってきました。
 陵墓から白塔子への道すがら、特にワールマンハの山の景色が、恰も壁画中の山水画とよく似通っていて、私はまるで壁画の中を、歩み出して行くような夢心地で、牛車にゆられながらワールマンハを過ぎつつ、さすがに名残が惜しまれてなりませんでした。
 昼は殆ど暗い蝋燭の光の中で過し、夜は夜もすがら、生木をたく焚火の煙にむせて、私達の眼は赤く重たく腫れてしまっていたので、久しぶりの太陽の光は、眼にしみ入るように痛く感じました。
林西へでてきた家族の一行は、見違えるばかりやつれていました。林西、赤峯を経て朝陽に帰ったのは十二月の半ば頃でした。縮図はやがて原形に清書する心算 です。実に之は私の生涯を通して最も有益な、記念すべき仕事であると思っています。東京に帰ってからもあの描き残してきた、春夏と冬の景色の事が気になっ て、いつかまた父に従って、残りの模写が出来たら本望だと、今も尚私は絶えず考えております。

『遼の文化を探る』鳥居龍蔵より(昭和九年三月―――――科学知識)

  鳥居龍蔵夫妻は滋賀県湖東町にある「西堀栄三郎記念:探検の殿堂」でわが国を代表する50名の探検家の中に唯一夫妻で選ばれている。これを選んだのは梅棹 忠夫氏が代表する選考委員会である。最初にここを訪問したときには鳥居龍蔵が南極を探検した白瀬大尉やエヴェレスト登頂の西堀栄三郎氏と並ぶのは異質の人 物のように思っていたが、次女の緑さんの「父の研究を助けて満蒙へ」を読めば、正に探検旅行であったことがよく理解できる。
 我々は続いて東陵の尾根づたいに約30分歩いて中陵に着いた。ここは陵墓内を見る位置にまで急斜面を下りることが出来たが中は浸水していて見ることは不可能であった。
西陵は中陵と東陵の距離よりもさらに遠く峰を越えてゆくことになった。案内役の青格勤副館長は前記のようにいつも我々よりかなり前方を歩いており、我々が 彼の待機している所に到達すると直ぐに又歩き出すと言うような強行軍であったので、持病の膝痛が始まった。持参した鳥居龍蔵の『再び満蒙を探る』によると その当時でも東陵に比べると西陵は盗掘で相当荒らされており、観るべきものがないとの情報を得ていたので西陵行きは断念した。東陵(興宗)、中陵(聖 宗)、西陵(道宗)墓前には陵墓を守り、管理する建築物があったらしく、現在でもこのあたりでは瓦片、陶器片、磚などが多数散乱していた。
学界では、この3陵がそれぞれどの皇帝のものか学問論争があり、東陵には聖宗が葬られていることが定説になっていたが、最近哀冊(墓誌碑)が発見され、鳥居龍蔵が主張するところの興宗であることが判明し改められた。
次に鳥居龍蔵博士の研究手法について触れておきたい。それは用意周到の一語に尽きる。訪問先で聞き取り調査するための言語は勿論、資料は外国のものも含め てあらゆる事前学習をしている。例えば、慶陵を調査するに当たって、壁画のことについても詳しく調査している。だから『再び満蒙を探る』を読返すことに よって、墳墓内に入らなくても当時の臨場感に近づくことが出来た。しかし、現場で読むことによって初めて理解できることであって、自宅の書斎で読んだので はほとんど理解できないと思われる多くの点を感じ取ることが出来たのは鳥居龍蔵とは違った意味でフィールドワークと言えるかもしれない。また、今回慶洲3 陵を訪問して大規模な盗掘跡を目の当たりにするだけで墓内は見ることは出来なかったが、大きな墳墓を囲むように岩組みが残り、それを取りまくように木々の 緑、色とりどりの草花が咲きほこり、蝶の一群が乱舞する光景は、鳥居龍蔵が記録を残している陵内の四季の間の壁面の美しさを想像させてくれた。

東陵の盗掘穴と道端の花
東陵の盗掘穴            東陵に向かう途中で摘んだ花慶雲山遠景
慶雲山

D 白塔子→巴林右旗博物館→林東(遼時代の上京) 7月6日(水)

 白塔子でのいろいろな想い出を残して今日は巴林右旗博物館、林東へと向った。
昼前に着いた巴林右旗博物館には、白塔解体修理時(1988〜1992)に発見された文物や慶州東陵陪葬墓発掘の哀冊石刻(墓誌)をはじめ注目すべき遼代 文物が多く展示されていた。また鳥居龍蔵が多く発見し紅山文化と命名した新石器時代の遺物も多く展示されており、青格勤副館長と烏保管部主任(女性)の案 内で詳しい説明を受けることができたが、白塔のある現場の展示場では問題の無かった、写真撮影は全く許されなかったが東部モンゴル地帯の人間文化活動の先 進性を垣間見ることができて興味をそそられた。青格勤副館長は我々を慶陵に案内してくれた人で、現地で2日間寝食を共にした間柄であるにかかわらず、何故 撮影を許されなかったのか不思議に思った。
 博物館の石館長、青副館長、女子学芸員との楽しい会食後、林東(遼時代の上京)へと向った。林東は契丹帝国の開祖・耶律阿保機が首都としたところであ り、此所の上京臨?府で帝位についたのが907年とされる。かつての臨?府の遺跡のほとんどは今まで手つかずで、城壁、宮殿の建物群跡が保護されており、 この広大な遼上京遺跡は、草一面の緑につつまれひっそりと発掘調査を待っている様であった。
遺蹟跡の南東隅に石造の観音仏像があり、遼上京創建当時は建物内にあったもので、彫刻は荒削りで高さ2メートル程の石像であった。異教徒によるものか、或 いは地震で落ちたのか、頭部が頸部から無くなっていたのは誠に残念であった。腰のあたりは真新しい花崗岩に支えられ、ひっそりと佇んでいた。
 鳥居龍蔵は1908年に訪れこの観音像をはじめ多くの発見をし、「考古学より見たる遼の文化」として学術発表をしている。現在の林東は建設ラッシュで至 るところに工事現場があり、街全体で近代化を急いでいる印象を受けた。その最たるものが遼上京博物館であろう。臨?府遺跡のかたわらに設けられた宏壮な構 えの新博物館は、林東市内でも格段に大きく、同市の文化活動の一大拠点に位置づけられており並々ならぬ意欲を感じる建物であった。新博物館の前広場には契 丹帝国の開祖耶律阿保機の巨大な銅像が立っていた。馬にまたがったその姿は「郷土の英雄」もしくはモンゴルの英雄以上のものを感じさせる異様な光景であっ た。この正式名称である赤峰市巴林左旗(遼上京)博物館に王未想館長を表敬訪問した。この博物館は建設途上で来春4月に完成の予定とのことで広い館長室も 目下整備中であった。王未想館長の父君も考古学者で鳥居龍蔵の足跡について詳しく1908年来訪時の鳥居龍蔵論文等を書架から出してきて説明を受けた。こ れを機会に来年以降に鳥居龍蔵に関する催しも考えてみようとの話を受けた。王未想館長は名前、風貌から漢人と思われるが、最近まで副館長をしていたが館長 をしていた父親から館長を引き継いだという。
館内見学は、今でもよくあるという停電事情の為に一階部分にとどまりオープン前の全館の見学は出来なかった。一階の部屋は遼上京の全体図が大きな模型で展 示されており、壁一面には当時の騎馬戦闘シーンが銅版で型取られ、正面の奥には先ほど遺蹟跡でみた頭部の無い観音石仏像のレリーフが置かれていた。

遼上京博物館と遺跡
王館長、鳥居、岡本、郭の各氏 何を語る契丹魂  頭の無い石像  遼上京遺跡石碑

E林東→遼上京の南塔・北塔→真寂勝景(寺)→赤峰 7月7日(木)

 林東の遼上京の臨?府城域に入る手前に南塔・北塔があり訪れた。
南塔は臨?府より約15キロ離れた南部に在り、八角形の七層の仏石塔であった。
白塔でみたような七重ではなく基壇部1階部分が大きくとられ2階、3階部…・・がせまくなっていて、規模は白塔の2分の1程度で白色彩でなく、飴色がかっていた。
北塔は臨?府より2キロほどの北部の街中にあり、五角形の五層の仏石塔で、南塔と同様基壇部1階部分が大きくとられ2階部、3階部に行く程せまい構造になっており、北塔の規模は南塔の半分程度で色彩はうすい褐色であった。
以前の巴林の左旗博物館はここにあったが遺物は今建設中の遼上京博物館に移されていて今は古びた建物だけが残っていた。
南塔よりさらに5キロほど南側に遼代石窟寺院の真寂之寺がある。この寺は契丹族特有の岩をあしらった寺院で日本の寺院とはかなり違った趣きであった。南北 に岩山がそびえ、東側の岩山は独特の山容を誇っていた。この東側に寄り添う形で二つの異様な巨岩が南北に対になっている。二つの巨岩が向かい合い、狭く なったところが山門に見立てられ、南側の岩の側面に寺を守護する力士像が浮き彫りにされていた。かつて鳥居龍蔵が訪れた際に写真記録を残しており、北側に も力士像が彫られているようだが、今は樹木が繁茂して見ることが出来かった。
 この寺院は、密教系寺院で石窟は三つの窟からなる。中窟(二号窟)は最も規模が大きく、中心に釈迦の涅槃像が安置され、後方には仏弟子が配されている構図は日本でみる光景と同じである。だが仏像・柱などに塗られている色彩は密教独特の原色で華やかである。
今は完全にチベット仏教化しており石窟の前には、ラマ教の善福寺仏殿なるものが清代の巴林王により建てられており、創建当時の仏教思想と相入れない感じを受ける。

林東の遼上京 南塔・北塔、善福寺のある奇岩山
南塔 七層八角    北塔 五層五角    善福寺(真寂之寺)のある奇岩山

今 日は日本の七夕まつりの日である。私の住居地には平安時代に栄えた七夕文化の遺産が数多く伝承されている。中国は七夕の発祥地でありながら、文革以降ほと んど忘れ去られていることは残念であると昼間、同行の郭さんに話していたところ夜隣室でTVを見ていた郭さんが今恋愛場面で七夕の話が出ていると飛び込ん で来たのは嬉しかった。
  

おわりに

  人類学・考古学の巨人・鳥居龍蔵一家の足跡を辿る旅は7月初旬であったが、天候に恵まれ7月3日(日)のカラチン王府の帰りの車内で激しい夕立に遭った程 度で晴天で快適な旅だった。食事は毎回羊肉で、骨付きの大きなものを大型の良く切れるナイフで切り取って食べることであったが、肉の切り取りをしていた器 用でベテランの青さんが目の前で指を切ったのを見て自分でやるのは遠慮した。肉は柔らかく臭みもなかった。アルコール度数の高い(50度ぐらい)酒を一気 に乾杯する習慣はどちらから始まった風習かは定かではないが漢人と同じであった。我々はもっぱらビールで乾杯したが、清代蒙古王府博物館の職員が衣装を着 替えて歌を歌って歓迎してくれたときには強い酒を一気に飲み干した。
 気候的には高原の爽やかさで日中こそ少し汗をかく程度で朝晩は肌寒いくらいで長袖のポロシャツが役立った。下着類は京都大グループで経験のある人からア ドバイスを受けて使い捨ての紙製品を準備した。宿舎には風呂もなかったが、気候は乾燥しており汗臭くなることもなかった。唯、トイレだけは青空の方が良い と思って早朝の草むらを探していたら大きな豚が現れて驚かされた。
 今でこそ高速道路が整備され簡単に移動が可能になったが鳥居龍蔵が活躍した頃は馬車、牛車が中心で艱難辛苦の連続であったことは『ある老学徒の手記』を はじめ彼が書き残した膨大な資料の中で読み取ることが出来る。家族帯同しての調査旅行はさらに大変だったと思われる。殊に、厳冬季に慶陵で発掘調査した時 の壁画模写では真っ暗なところに蝋燭の火だけで、肌で絵の具を温めながら息を吹きかけて描いたこと、また、弟で次男の龍次郎さんが護衛の蒙古兵も恐れる暴 風の中をいとわずテントが吹き飛ばされないように外で杭打ちをしたことや陵内ではマグネシュームの煙を払いながら大型の写真機を駆使して大量の写真を記録 したことなどが次女緑さんの『父を助けて満蒙へ』に 書き記されている。そんな記録を読んでいると目頭が熱くなり眼鏡が曇ってしまうこともしばしばであった。しかし、そのような厳しい環境の中でも皆が心から 喜びと楽しみを持って父を助けていた様子が、率直に緑さんの言葉で語られていることに敬服するばかりである。これらの調査をまとめた論文集、写真集、絵画 集が遼の契丹文化を知る今でも貴重な研究資料となっている。
 鳥居龍蔵は第二次大戦中勤務していた燕京大学(米国ハーバード大学姉妹校)が日本軍部の接収に合い、生活もままならない状況下でも北京に残り、子供たち の働きで何とか生活をしていた。そして、戦後も中国に残り燕京大学の教授に復帰して遼文化に関する膨大な資料の整理と論文執筆にあたった。
中国も内戦を経て中華人民共和国を建国したが、財政的に厳しく文化教育面への支出に余裕がなく遼文化に対する学問的位置付けが遅れ、最近ようやく評価され はじめ緒についたようだが、予算が地方に回らないのか、漢民族優先か事情は不明だが、大きな進展がみられない。鳥居龍蔵の業績を残すことは時間との競争に なっており、清代蒙古王府博物館をはじめ遼上京博物館などと交流を図り、資料と人の交流が強く望まれる。はじめに記したように京都大学を中心にユーラシア 大陸での契丹文化を見直そうという気運が盛り上り、ここ数年で1次〜3次の学術調査隊が派遣されているが、今後この方面での日中の学者間、研究機関などの 交流が活発になり更なる成果が上がることを期待するものである。


以下は参考写真:現地での交流風景
現地での交流1    石館長と
職員が衣装を変えて乾杯の歌で歓迎              石館長と乾杯      
おきみさん資料(現地)  現地での交流2
現地で保管されているおきみさんの資料   持参した京大隊の報告書を見る職員
現地風景1
草原は山間にあり、遠くに羊や馬の放牧が見える。
現地風景2:豚登場  現地風景3:SL
早朝散歩の豚が突然現れ邪魔をする              SLに遭遇           
清代蒙古王府博物館にて
清代蒙古王府博物館で突然頼まれて何年振りかで筆を持ちました。
鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』より
鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』より

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