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『ある老学徒の手記』復刊記念
2004・6・10 鳥居龍蔵を考える会 代表 鳥居 貞義 |
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昨年大阪・東京で開催した「鳥居龍蔵を考える会」を今回(第3回)は念願の北京で開催出来たことは誠に喜ばしいことで、参加各位のご協力に心から御礼申し
上げます。特に今回は燕京大学時代の鳥居龍蔵夫妻を良く知っておられる安志敏教授、唐進倫教授の両先生がご高齢にも拘わらずご参加頂き誠に有意義な会とな
りました。又、北京大学で考古学を学んでいる篠原典生君が参加してくれたことは急病の為に残念ながら参加されなかった高崇文教授(北京大学考古系)とのつ
ながりを考える上で大変有意義なものとなりました。何故なら北京大学の歴史上にある燕京大学は鳥居博士が永年客座教授をしていたところだからです。更に中
国徐福会常任理事の林暁兵氏が参加してくれたことにより、空港到着後の最初の行事である北京大学考古博物館の見学が高崇文先生不在というハプニングにも拘
わらず林暁兵氏の事前交渉により、予定通り実施することが出来ました。ここに特筆してお礼申し上げます。 |
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T.北京大学考古博物館(北京大学賽克勒考古與技術博物館)見学 |
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趙副館長に本を寄贈 | 北京大学考古博物館正面玄関にて |
2. 台湾探検 原著;鳥居龍蔵 訳注;楊南郡 遠流出版公司(台湾) 3. 中国の少数民族地帯をゆく 鳥居龍蔵著 朝日新聞社 4. 図説鳥居龍蔵伝 鳥居博士顕彰会 5. 史窓34号 鳥居龍蔵特集 徳島地方史研究会 6. 鳥居記念博物館紀要 第1号 徳島県立鳥居記念博物館 7. 考古学資料館紀要 国学院大学考古学資料館 8. 『ある老学徒の手記』復刊 3冊 博 物館内では貴重な数々の品を目のあたりにすることが出来ました。更に、撮影についても許可を頂きました。私は前回高崇文先生のご案内で見学させて頂いたの で今回は2度目ですが又新しい発見がありました。特に「弩」と「半両銭」は私の研究している徐福(*1)のテーマでもあります。館内併設の部屋では台湾の 収集家王度氏の収集品の特別展も開催されておりました。少し前までは台湾の収集家のものが北京大学で展示されるなど想像もつかないことでした。以前台湾の 順益博物館が鳥居龍蔵の写真集を展示したように北京大学のこの場所で鳥居龍蔵の写真集を展示するのも意義あることだと感じました。 |
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弩(ど) | 左;半両銭? |
(*1)徐福とは約2200年前に秦の始皇帝の命で不老不死の仙薬を求め、蓬莱の国(現在の日本)を目指して東渡し、 「平原広沢を得て、王となりて帰らず」 と中国の正史司馬遷の『史記』に記述されている人物。日本国内には九州を中心に青森、新宮、熊野、伊根、富士山麓、八丈島など20余ヶ所の伝承地が存在する。 |
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U.鳥居龍蔵を考える会 in 北京 |
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資料説明(鳥居) | 左;唐進倫教授 右;安志敏教授 |
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中国側 順不同 安 志敏教授 「社会科学院」日本語可 唐 進倫教授 「外国語大学」日本語可 林 暁兵先生 「中国徐福会」日本語可 篠原 典生 北京大学学生考古学専攻 |
日本側 順不同 鳥居 貞義 「鳥居龍蔵を考える会代表」 豊福 康則 「日本ベンチャー学会」 岡本 正明 「ノウハウ会、徐福友好塾」 |
持参した資料を見ながら思い出を語る左から岡本正明、唐進倫、安志敏の各氏 |
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安志敏先生が『燕京大学人物誌』の中で述べておられること(*3)及び、劉子健先生が『燕大雙週刊』に書かれていること(*4)に加えて唐進倫先生が口頭 で話された「龍蔵博士はとってもコスモポリタンな性格であった」点更に鳥居龍蔵自身が考古・人類学に邁進した歴史を見ればそのような批判は「為にする」全 く無駄なことだといえます。この点について唐先生は雄弁に熱っぽく語り、安先生は温厚な性格そのままの語り口でしたが『燕京大学人物誌』の中に記述されて いることが全てを物語っていると語りかけているようでした。 (*3)『燕京大学人物誌』(燕京研究院編 北京大学出版社2001年) ―鳥居龍蔵―安志敏記より抜粋 「太平洋戦争が始まるや否や、燕京大学は閉鎖され、教員も学生も全員が大学から追い出され、更にその中の一部の人達は日本軍に逮捕されてしまったのであ る。このような極めて厳しい状況の中で、鳥居先生は大学の校門に立ち、連行されて行く教師や学生に向かって、深々と頭を下げ、陳謝の意を表したのである。 又、何人かの教師の所有する図書や品物等も、鳥居先生の手助けにより、校外へ持ち出すことができた。当時、先生は日本当局の圧力に対抗しながら、数多くの 教師や生徒達に、同情の意を示し、尽力されたのだ。これは容易にできることでなく、多くの教師や生徒達から更に尊敬され、この事が、終戦後、学校が復活し た際、いち早く、先生を再度招聘することになったのである。 1941年12月、燕京大学が閉鎖されて後、先生は客座教授の職と収入を失ったばかりでなく、先生の一家全員が、一年余りにわたって軟禁されてしまい、 家族全員が失業し、経済的に非常に困難な状態になったのだが、友人の助けにより、長女の幸子、次男龍次郎と次女の緑子はやっと就職でき、家計を支えること ができた。このような困難な状況下に於いても、先生は屈服する事なく、1942年、ハーバード燕京インスティチュートの名義で、英文で『遼時代の画像石 墓』という本を出版されて、その本には、燕京大学校長であるスチュアート氏が書いた序文が載せられている。太平洋戦争が日増しに激しくなり、燕京大学も閉 鎖され、スチュアート校長も獄中にある時期に、しかも、北平では、英語教育が廃止され、英文を使用することが厳しく禁止されている最中に、先生がこのよう な出版されたということは、先生が当局に対する抗議と抵抗であることは明らかである。これは先生の気骨と何物にも妥協しない性格の表現でもあり、なかなか 出来ることではない。」 (*4)『燕大雙週刊』より 鳥居龍蔵先生 −学校へ戻られた日本人客座研究教授− |
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劉 子 健(*) | |
私達の大学が再び開校し、鳥居先生も再び我が校に客座研究教授として招聘された。敵であった日本及び日本に味方した者達を一掃した今日、敵により蹂躙さ れ、虐待された後にもかかわらず、日本人を再度この学校に招くとは何故なのか?物議をかもすかもしれないのを恐れなかったのか?それには次のような事が あったからなのである。 日中戦争が始まった後、日本側は度々大学を訪れ「燕京大学は国際的な大学であるというにもかかわらず、日本人の教授は一人もいないではないか、これは明 らかに抗日的な行為である」と詰め寄った為、これに対し、大学側は「招聘するなら著名な学者でなければならず、勿論国籍は問わない。しかし招聘するのはあ くまでも本校が人選をし、決定することであり、たとえ本国の政府でも、勝手に決めることは不可能だ。学問は自由であるべきだからだ。」と断った。 日本は更に顧問という形で日本人のスパイを送り込もうとしたが、これも全部失敗に終わった。しかし、大学側も日増しに厳しくなる情勢に、対応をせまられ、鳥居先生を招聘することに決定し、敵側の更なる攻撃を逃れたのである。 鳥居先生が日本の侵略に対して反対だった事は、皆よく知っていたが、欧米等、他の国の人々のように、燕京大学に忠実であるか否か、まだ未知数であった。 先生が大学へ赴任して後分かったことは、先生の家族全員が各自専門的な技術を持ち、先生の考古学の研修に協力し、他の日本人との接触も無かったのである。 先生の娘(註:緑子?)がある時、北京の西直門で日本の憲兵にとがめられ、いさかいを起こしたが、それ以来、大学側は始めて、先生一家を信頼するように なったのである。民国28年から民国30年(註:1939〜1941)の冬にかけて、鳥居先生は、下花園の北魏の石室、大同雲崗の石室、山東省臨?の斉 墟、遺跡、臨?と黄県龍口の貝塚等の調査旅行に次々と行かれたが、中でも最も価値のある研究は考古学の観点から、山東半島と遼東半島の比較研究である。そ の研究成果は、全部『燕京学報』に次々と発表されており、これは非常に貴重な論文であり、これにより皆一層鳥居先生を尊敬するようになったのである。 その後日米間の戦争が始まり、燕京大学は閉鎖されたが、鳥居先生がこれに激しく抗議し、その後一年間軟禁された。日本の総合研究所が先生を招聘しようと したが先生はそれを拒否し、七十歳に届く高齢であったにもかかわらず、貧困に耐えながら、不屈の精神を持ち続けた。更に彼は『燕京学報』に掲載された論文 を日本側に反故にされるのに耐えられず、色々な方法を考え、終に、英文で『遼時代の画石墓の研究』という本を書き、当時の禁止令を無視してハーバード燕京 インスティチュートの名義で民国31年(註:1942年)北京で出版したのである。しかも、その本の最初の頁には、スチュアート校長の序文をも載せている のである。当時スチュアート校長は獄中にあり、当然この事は知る筈も無かったが、この本のことを知った人々は、皆非常に驚き、鳥居先生に対する尊敬の念を 更に深めたのである。外国人でありながら、我が国の法律や学校の気風を守り通し、学問に身をささげ、文化面で貢献し、本国の軍人からおさえつけられながら も、自分の身の危険もかえりみず尽力されたのである。豊かな生活を得るために奔走し、日本軍の手先となった者達に比べ、先生は何と立派な方でしょう。我が 燕京大学が、このような外国の学者を引き留め、我が国の文化面で更に尽力して頂くことを、誰が拒否するだろうか?本来、学問に国境は無く、文化面でも共通 点がある我が大学と鳥居先生は困難な時代を共に経験し、耐え抜いてきたのであり、この事は我が大学にとっても、又先生にとっても有益であったし、誇りでも ある。 (*)劉子健氏は、燕京大学卒、1945〜1946年同大学で教鞭を取っており、その間 鳥居龍蔵と親交が会った。 鳥居の学問に対する情熱が如何なるものであったか。軍部とかかわった御用学者という批判が根拠の無い如何に馬鹿げたものであるかは燕京大学に在籍した両教 授の寄稿文の紹介で十分であると思うが、もうひとつのエピソードを加えて、無意味な議論に終止符を打ちたい。 『燕大雙週刊のコラム記事』より −政治宣伝にドルメンについて語る− 1941年、本校が閉鎖されて後、日本人達は鳥居龍蔵先生を米国向けの宣伝に使おうとし、1942年東京の放送局が鳥居先生に、米国向けに政治的な宣伝を してくれと依頼した。先生は「私は考古学以外は何も分からない」と断ったが、その後も放送局側が更に要求し続けた為、鳥居先生は同年6月14日、娘の緑子 に対米国向け放送をさせた。そのタイトルは「Dolmen in China」で、山東省で新しく発見されたドルメンに就いての内容であった。 |
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V. 燕京大学時代の鳥居夫妻の写真 |
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以 上 |
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