鳥居龍蔵の足跡を訪ねる旅
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『中国の少数民族地帯を行く』
「素朴な苗(ミャオ)族とのふれあいの旅 貴州省・少数民族の世界を行く」

(No.5)2009年8月17日(月)〜8月23日(日)7日間  鳥居龍蔵を考える会 鳥居貞義  

貴州省の概況(人民中国「黔の道」参考)
 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬暖かく、夏涼しい。年 平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、 イ族などの数(民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。


第1日目  8月17日(月)関空発、広州経由貴陽へ
広州は「広州交易会」の開催地として良く知られているが現役時代に中国を担当するようになった時には既にその価値が下がっていたので広州へ降りたのは今回が初めてであった。
広 州空港は2004年に移転新築された。現在の中国は日本が東京オリンピック、大阪万博で沸いていた頃のような発展を遂げていたが規模と勢いはそれを凌駕す るものであった。隣接地に更に第2空港を建設中とのこと。新空港内では土産品として果物の高級品、例えば温州みかんが1個15元(約220円)で並べられ ていた。現地ガイド(呉さん)の説明では輸入品とのことであったが同じみかんが露天でも並んでいた。

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空港の売店のみかん(中央)山が迫る広州新白雲空港貴州に三里の平地無し

広州〜貴陽へ
上 空では入道雲が雲海の上にも林立していたが、貴陽空港到着30分前になってようやく雲間から連山と一部の棚田を見ることが出来た。残念ながら機内撮影禁止 の時間帯で写真に収めることはできなかったが尾根に沿って道らしきものが見えたとき100年前に龍蔵博士が歩いた道だと思うと急に熱くなるものを感じた。 今は飛行機でひと飛びだが、早朝鶏鳴を聞きながら護衛兵を伴って歩いた当時の苦労は想像にあまりある。
連山が続く中で空港はどこにあるのかと考えているとゴルフ場のようなグリーンが現れ、そして滑走路が現れた。
  二人の女性現地ガイド彭さん(旅行社 副社長)、汪さん(旅行者社員)に迎えられて夕食会場(大仟納園)へ向かった。貴陽は貴州省第一の都会(首都)であ るが平地が少ないためかペンシル型のビル(地震は無い)が林立、車の洪水(坂道が多いので自転車は少ない)になっていたのにはがっかりした。
貴州省は少数民族の宝庫(17民族)で少数民族には文字が無く現在は漢字を使っている。
  言語も全て別、他に南京→貴州→雲南へと移動した「老漢族」と呼ばれる漢族も多数残っているが彼等は少数民族には入らない。少数民族には所謂宗教は無い が、1910年代に欧米人がキリスト教を持ち込んだので現在はキリスト教会もある。少数民族対策として子供は二人までOK、それでも最少の民族の人口は 5000人(絶滅危惧種族?)漢民族との民族問題は無く、二毛作で米が主食、料理は辛口、気風は親切。

第2日目  8月18日(火)天龍屯堡文化村、地劇(仮面劇)黄果樹大瀑布
天龍鎮の石造り住居見学
 天龍鎮は石造りの住居は細い路地の両側に全てが平べったい石積みで、漆喰にもち米を使って強度を保っているのが特徴だ。老漢族が経営する露天の中に射的屋があったので的をいる。
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石造り住居連弩射的露店みかん
弩は矢を3本同時に発射できる連弩になっていた。これを発見した時に兼ねてより推測しかねていた連弩のイメージが湧いた。

連弩発見
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天龍鎮で購入した連弩(三本矢)兵馬の射手   射手のイメージ

  天龍鎮の石造り住宅を見学の途中で老漢人の露天街で連弩の原型と思われるものを発見した。徐福の研究で史記に記載されている「徐福」一行が海中のオオサメ と戦うために秦始皇帝に要求して船に積み込んだ連弩と言うものがどのような形状であったか?書物にはイラストは出て来るがどうもイメージが分からなかった がここで見つけた連弩は大きさは小さいが連弩の原型と言えるイメージを持っていた。少数民族は秦代に追われて山又山の貴州省に来たことを考えるとここで見 つけた連弩はイメージを残しているかも知れないとの思いから射的屋の商売道具であった連弩を買い取る交渉をした価格は200元(約3千円)であったが彼は携帯 電話を取り出して新品を手配すると申し出たが、既に同行者とも離れていたので待てないと説明しどうしても目の前にある現物(商売道具)を購入したいと頑張っ た。通訳の汪さんは4月に入社した見習いであったことも幸いして諦めることなく一生懸命に交渉してくれた。結局中古品ということで価格も弓も5本加えて 150元で購入できた。同行者が飛行機への持込が出来るかどうか心配してくれた。大型のスーツケースに斜めに入れる予定で購入した。

天龍鎮の石造り住宅を見学後屯堡文化の代表といわれる「地劇」を観劇した。
009 明代(約600年前)の皇帝朱元璋が西南辺境を安定させるために数十万の軍隊がそのまま残り(老漢族)、現地文化と融合した新しい文化「屯堡文化」が形成された。屯堡文化を代表するものが「地劇」である。鶏頭に似せた仮面を被って踊る。

鳥居龍蔵は「明代の遺民・鳳頭鶏」と紹介している。

アジア第1の滝「黄果樹の滝」観光
010  この地域は高度約850mで真夏にも関らず比較的涼しかった。黄果樹の名称と由来はこの地に多く生息するガジュマロの木と中国語の発音が似ている、オレン ジの産地であるの二説あるとのこと。確かに雄大で、特徴は滝の裏側が鍾乳洞のようになっていて裏側からも滝の音を含めて鑑賞出来ることである。
ナイヤガラの滝も裏側に回ることは出来るがエレベータを利用、又滝に直接触れることが出来ない。
自然は誠に満足であったがつり橋の安全性(定員30名とあるが超過密状態)と帰路に超長いエスカレーター(三菱製)を使うのは近代化し過ぎているが高齢者には助かった。出来ればもう少し自然との調和が欲しい。
因みに「黄果樹の滝」は和歌山県の「那智の滝」と友好関係を結んでいるという事だった。
連弩の持ち運び
  ホテルに到着後、連弩を大型のスーツケースに斜めに入れることを試みたがそのまま入れる事は無理なので、分解することにした。頑丈に出来ていたのでホテルの ボーイの協力を得ることになった。ドライバーとペンチで分解することが出来た。結局ボーイとガイドに連弩とほぼ同額のチップを払ったが購入から持ち帰るま での準備が整ったこと、何よりも連弩のイメージが解決出来たことで満足であった。
歩いてホテル「金谷瀑布山荘」へ

第3日目  8月19日(水)六枝特区梭戛苗族彝族回族郷、長角ミャオ族村
早朝ホテルを出発し六枝特区平寨鎮に向かった。六枝特区梭戛苗族彝族回族郷の「梭戛郷精神文明活動中心」にて昼食後、梭戛郷の長角苗族の村で歓迎式を受けた 六枝梭戛生態博物館を見学した。
長角ミャオ族は独自の言葉だけで中国語を話さない。他民族と結婚もしない。独自の文化(髪型)を有し、農業、ロウケツ、刺繍を業とする。
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ロウケツ染め刺繍(この1枚で約1年の作業)
貧乏ながら子供を3,4人有し、羊と牛肉を食し、米は作らない。
又、男性は藍染、移動は歩く生活、石造りの古い町、観光客は欧米人と日本人だけで中国人は見かけなかった。凡そ2000年前山東省付近から来た。踊りは漢民族に分からないように夜中に小声で行うという。我々は村を挙げての唄と踊りで歓迎を受けた。

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髪の毛の結い方実演子供も大きな髪型で踊りを披露乳児から太鼓の練習?

夕刻安順市の「孔子廟(文廟)」を見学。
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ここも文革の影響で、かなり破壊されたようだが、現在は復旧工事の最中で、かなり復旧していた。

安順市のホテル「天瀑大酒店ホテル」に着くと、たまたま結婚披露宴の為に新郎新婦が入口で来賓を迎えていたので、憶えたばかりの中国語「恭喜(クンシー)」を連発してホテルに入った。


第4日目  8月20日(木)凱里市は黔東南ミャオ族、トン族自治州の州都

貴陽を挟んで西端の安順から東端の凱里(ガイリ:山の意味)市まで約240Kmを専用バスで走った。凱里市は黔東南ミャオ族、トン族自治州の州都
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レストラン従業員による民話レストラン鼓楼の絵
先 ず凱里市内のレストラン「トン寨楼」にて昼食、昼食後レストラン従業員によるトン族の楽器演奏と歌を楽しむことが出来た。従業員と云ってもプロ級の演奏と 歌、特にホーミングのような独特の発声で、3年前に内蒙古のレストランで聞いた従業員の唄を思い出した。と同時に鳥居龍蔵が訪問した時にはこのような歓迎 があったら何と記録したであろうか?との思いが走った。我々は更に麻塘(マータン)の苗族の村で寨の歓迎式と村の見学にも恵まれた。
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女性の服装の特徴、兵士の服装をイメージ、弓の名人を意味する矢の形をしたお守りのようなものを帽子の後部に付けていた。

←女性四世代の服装の説明を受けた。
女系家族?
右より祖母、娘、孫、曾孫



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村長さん(右端)は働き者で笙の演奏では若者の先頭を切って実演してくれた。又村長さんの好意で隣村の石龍寨の西家の2人の娘さん(民族服)を単車で迎えて参加させてくれました。
料理の特徴;酸化、発酵させた酸っぱい味、「酸と菜」、夕食は伝統料理「酸湯魚」建物の特徴;鼓楼、風雲橋、現在の凱里市の特 徴;高度約850m、携帯電話用と思われる移動通信用のアンテナ基地、個人用パラボラアンテナと石炭を満載したトラックの往来などに違和感があった。続い て黔東南州民族博物館を見学した。

凱里市のホテル「嘉瑞禾騰龍酒店」に宿泊

第5日目  8月21日(金) 南皋郷「償卡村」と「石橋村」へ)
私達はこの村に入った初めての外国人とのことだった。道路は6月に完成したとか。住居は伝統的高床式住居。楽器の「銅鼓」と「芦笙」が特徴的だった。
銅鼓と民族楽器「芦笙」を演奏しながら歌と踊りで歓迎を受けた。

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銅鼓(どうこ)銅鼓を広場に吊り下げて
準備
特大の「笙」演奏
銅 鼓は200年前(村長は2000年前と説明?)の物で村の宝物、我々の為に急遽飾りを付けた吊下げ用の柱を作ったらしい。酒を口に含んで何度も吹きつけた 後、二人で笙に併せて演奏、初めて生の音を聞かせて貰った。銅鼓は台に載せて太鼓のように上からバチで鳴らすものと思っていたが実際は吊り下げて、両手に 形状の違うバチを持ち太鼓のように二か所で拍子をとっていた。そう云えば日本の博物館で見た銅鼓は据置きだったがここの博物館ではどこも吊下げていた。 又、銅鼓は通常、鼓楼を立てその上に置かれているらしい。
博物館の展示
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銅鼓は歓迎式典で見たように吊下げて置かれていた。
使用しないとき時には土中に埋めると日本で学んだが確認はできなかった。






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鼓楼は立派な楼閣でその上ではどのように置かれているのか見ることはできなかったが日本の半鐘のような役割をしているとのことなので大切に扱われていた。
今まで見学した村の住居は主として石作りであったが「償卡村」と「石橋村」共に木造りであったことが半鐘と関連があるかも知れないと連想されたが確かめることは出来なかった



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博物館の模型実際の石橋木造り回廊
石橋村の伝統紙すき
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「石橋村」では伝統的紙漉きの工房「王興武古法彩色萱紙」を見学、紙漉きの方法は全く日本と変わらなかった。
王興武さんの民家レストラン「農家楽」で遅い昼食を取った。




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この町では真っ赤で大型のトウガラシとトウモロコシが道沿いに所狭し、と多数天日干しされていた。
天日干しされたとうもろこしは手作業で粒を取る作業をしていた。作業はゴムの靴底を上にして擦り付けるというユニークなものだった。



貴州省博物館へ
今回の旅行の主たる目的の一つである鳥居龍蔵博士を顕彰する行事の時がやってきた。
石 橋村からの遅めの出発に加えて、途中、トラック事故の為、貴州省博物館到着が1時間以上遅れたが李黔兵館長はじめ関係者が待機して出迎えてくれた。開館時 間は終了していたが李館長の特別の計らいで先ず博物館を案内してくれた。貴州省少数民族の総合博物館になっていた。記念行事のこともあって少し急いだ見学 になった。
博物館見学の後「鳥居龍蔵博士を記念する」式典も予定通り開催された。
貴州省側の出席者;貴州省博物館館長 李黔兵、貴州省民族研究会副秘書長学者 黄才貴、貴州省旅遊局処長 張鵬華(MZ) 貴州省人民政府外事弁公室副処長 岑鵬(MZ)、
貴州省中国国際旅行社副総経理 彭旭(MZ)、貴州省人民政府外事弁公室 職員張?
両方の出席者を紹介後、メッセージ交換と記念品(鳥居龍蔵が1902年に訪問した時の地図と写真及び少数民族の手作り作品)の交換をおこなった
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記念品交換博物館前で記念撮影
ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族など(省人口の37.8%)
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少数民族の展示1少数民族の展示2

貴陽市内の歪菜館にて夕食後、ホテル華履大酒店へ

第6日目  8月22日(土) 貴州省博物館訪問のフォローアップ
予定のコース(青岩古鎮;節孝坊(牌坊)、趙理倫百歳坊(牌坊)、迎祥寺、万寿宮など)
昨日昼食後から下痢に見舞われたので予定のコースに参加せず、この機会を利用してメール交換で旧知の日本語の分かる外事弁公室副処長の岑さんに来てもらって、貴州省博物館面談のフォローアップをさせてもらった。
@は鳥居龍蔵博士が107年前に写した貴重な写真の現場が現在どのようになっているかを博物館長の李黔兵先生を通じて学者の黄才貴先生にお願いする。
A少数民族の貴重な文化を各民族には資金的に生活保障をしながら近代化させない方法で保存する。例えば世界文化遺産としてなどの提案をさせてもらった。
その後昨日急ぎ足で見学したので見残していたところを見学した。
貴陽空港発、広州新白雲空港へ 中国南方航空(CZ)3422便・機種エアバスA320
往路に立ち寄った時と同じ日本語ガイドの呉さんの出迎えを受ける。広州市内のレストラン「蓮香楼」にて夕食後、ホテル「華厦大酒店」にチェックイン最後の夜はスイートルームが準備されていた。

第7日目  8月23日(日) 西漢南越王墓博物館 墓室内に入って見学
今回の少数民族調査とは直接関係ないが帰国便までの間を利用して西漢南越王墓博物館を見学した。西漢は日本では前漢と教えられており、 秦に次ぐ紀元前(BC203〜BC11年、5代93年)に福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有する巨大国家を形成し、その首都を現 在の広州に置いていたという。この博物館は陵墓と一体化したユニークな建造物で陵墓内に直接入って見学できた。帰国便の前にはショッピングセンターで時間 を取る団体が多いが考古学に興味がある者にとっては必見の場所である。
王墓では王の石棺、石室に隣接する后や側室の場所、殉教者や動物の遺骸も確 認できた他、門扉に閉鎖法なども実際に確認することが出来た。博物館では弩の矢や鏃、弩の部品などの他、イラストで撃ち方(操作法)を確認できた。秦に最 も近い時代のものであるだけに徐福集団が持ち込んだ連弩を類推出来るもので、天龍鎮で購入したものと酷似していた。
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博物館入口陵墓配置図の鳥瞰竹簡

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連弩射手イメージ矢じりトリガー

近代化
 現在までの少数民族はそれぞれ固有の文化を守り継いでおり、相互には言語も通じないようであるがパラボラアンテナ、乗用車、移動体通信基地(携帯電話基地)がそこまで来ている現実は早急に対策を打つことが望まれる。
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パラボラアンテナ付き住居石炭トラック乗用車満載の陸送トラック

参考資料
※西漢南越王墓博物館をより理解するために南越国についてウイキペディアで調べてみた。
南 越国(なんえつこく、ピンイン ; Nanyue-guo )は紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤とも記す、 首都は番禺(現/中国広州市)におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西壮族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有 していた。越国は秦滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せて建国された。紀元前 196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」となるが、紀元前112年、5代君主である趙建徳と漢の間で戦闘が勃発し、武帝により 紀元前111年に滅ぼされた。
南越国は嶺南で誕生した初めての封建国家であり、秦の中原地方出身の統治者により先進的な政治制度と生産技術をもた らされ、秦末の乱世の中で嶺南地方に秩序と安定をもたらしたといえる。南越国の歴代君主が推し進めた「和輯百越」政策は、漢族と南越国内部の各民族間の融 和をも促進し、同時に漢文化と漢字が嶺南地方へと移入され、嶺南文化に大きな影響を与えることになる。

参考資料2(江澤福氏)
貴州省=13世紀以降中国の領土内へ 元朝
揚完者(苗族英雄)対張士誠 朱元章の将軍
3,762万人。ミャオ、プイ、トン、イ、回、コーラオ、チワン、ヤオ、ペー、トゥー族など56の少数民族のうち、48民族が住んでいる
トン族=木の民。 風雨橋 釘ナシ 雷山県 湯雲 14万人 凱里の東南 鼓楼
ミャオ族 非漢民族の総称  巴、賓、戎、 蛮 夷 自称モン族 
貫頭衣 断髪 文身 わらじ 下駄
貴州のミャオ族は東方 洞庭湖 ホウ陽湖あたりから 黄河流域から玉突き的に
       蕨。ドクダミ コンニャク 涼粉とは別物 
もち米の利用方法 ナレズシ、おこわ モチ チマキ ナムミ
稲田養魚 但し日本佐久地方は江戸以降  直接には無関係 麻から木綿 油茶 
高床式 校倉つくり
シャオ族  闘牛 牛王 前座として闘豚

貴州のミャオ族は東方 洞庭湖 ホウ陽湖あたりから 黄河流域から玉突き的に紀元前200年ごろ、中国北方より苗族が移住

鳥 居龍蔵は貴州地方に1902年約4ヶ月に渡り現地調査をしました、鳥居博士の調査以後、中国は政治的な不安定時代に突入したので、少数民族を考査するため の根本資料としての有用性は今も大きな影響をもたらしています。鳥居博士は明朝初めの貴州地方へ遠征軍の子孫を苗族の一種だと誤解しレポートしています。 中国の少数民族優遇政策が新中国成立後実施されるにつけて、今度は老漢族自ら少数民族の認定を申し出ました。審査の結果、老漢族は漢民族の扱いとなりまし た。われわれは老漢族の村。天竜鎮の地劇鑑賞、地劇は村の広場で戦いの前に主に演じられていましたが、のち節句特に「重陽の節句の日の神事」などに演じら れるように変化、彼らのつける面のことを能と彼らも言い伝えています。





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