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  鳥居龍蔵先生は国際的に著名な考古学者であり、1895年以来、中国で考古学及び人類学の調査研究を始められ、この方面での開拓者としての功労は大きい。 晩年は北京に定住し(1939〜1951)、多くの研究成果を残している。特に長期にわたり、中国人民と接触する中で、中国を心から愛するようになり、彼の力の及ぶ限り、中日間の文化交流と友好のために尽力されたのである。
 1944年,私は中国大学歴史学科に入った後、私の教師であった斐文中先生から鳥居龍蔵先生に関する消息を多少聞いており、同時に、当時、同大学の教師 であった斉恩和先生と翁独健先生も、以前燕京大学で教授をされていたので、よく鳥居先生が燕京大学におられた当時の事を話されていた。1945年、終戦と なり、同年9月、燕京大学も又開校し、鳥居先生も燕京大学の元の住居に戻られた。その後、翁独健教授の紹介により、私も鳥居先生のお宅へ頻繁に伺い、教え を受けるようになったが、特に私が燕京大学歴史学科の助手として働いていた期間(1948〜1950)は、鳥居先生にお目にかかる機会もより多くなった。 そこで、鳥居先生が北京におられた間の、私の先生にたいする印象をいくつか紹介したいと思う。
 1939年5月、鳥居先生は燕京大学からの招聘を受け、同年8月、北平(註、現在の北京)に到着し、燕京大学の客座教授に就任されたが、この事は、先生 の晩年に於ける研究生活にとって、大きな曲がり角となったのである。これは当時の歴史的背景に左右されたからである。
 1937年7月、盧溝橋事変が起こり、日本は中国に対して全面的な侵略戦争を開始した。当時北平にあった国立大学や文化機関等は、北平が日本軍に統治さ れる前に、皆次々と中国の奥地へ移転したが、幾つかの私立大学は北平に残っていた。米国のキリスト教系の大学であった燕京大学は、校長が米国人であった 為、日本当局が干渉し得ない孤島のような存在となり、校内では抗日の感情が高まっていた。日本当局は情報収集と大学を統治したい為、日本人教師を招聘する ように再三大学側に要求し、具体的な人物まで紹介して来た。大学側はその度ごとに拒絶していたが、その対策として、自分たちの判断で、鳥居先生を客座教授 として迎えることを決めたのである。その時以来、鳥居先生は日本軍当局と興亜院等からマークされ、その後、太平洋戦争期間中、ずっと迫害を受けたのであ る。
 先生は燕京大学に赴任されて後の2年余りの期間中に、中国東北地方の析木城の石棚と遼時代の画像石墓、山西省大同の遼時代の城跡、雲岡の石窟、河北省宣 化の下花園石窟を調査し、更に、山東省、竜口で新石器時代の貝塚遺跡を発掘し、臨?の周、漢の古い城跡の調査を行った。又、同時に、遼時代の文化を中心に 専門的な研究を続けられ、日本語、中国語、英語で多くの論文と著書を発表された。しかし、その後間もなく、先生のこのような穏やか研究生活は徹底的なダ メージを受けることとなるのである。太 平洋戦争が始まるや否や、燕京大学は閉鎖され、教員も学生も全員が大学から追い出され、更にその中の一部の人達は日本軍に逮捕されてしまったのである。こ のような極めて厳しい状況の中で、鳥居先生は大学の校門に立ち、連行されて行く教師や学生に向かって、深々と頭を下げ、陳謝の意を表したのである。又、何 人かの教師の所有する図書や品物等も、鳥居先生の手助けにより、校外へ持ち出すことができた。当時、先生は日本当局の圧力に対抗しながら、数多くの教師や 生徒達に、同情の意を示し、尽力されたのだ。これは容易にできることでなく、多くの教師や生徒達から更に尊敬され、この事が、終戦後、学校が復活した際、 いち早く、先生を再度招聘することになったのである。
 1941年12月、燕京大学が閉鎖されて後、先生は客座教授の職と収入を失ったばかりでなく、先生の一家全員が、一年余りにわたって軟禁されてしまい、 家族全員が失業し、経済的に非常に困難な状態になったのだが、友人の助けにより、長女の幸子、次男龍次郎と次女の緑子はやっと就職でき、家計を支えること ができた。このような困難な状況下に於いても、先生は屈服する事なく、1942年、ハーバード、燕京インスティチュートの名義で、英文で『遼時代の画像石 墓』という本を出版されて、その本には、燕京大学校長であるスチュアート氏が書いた序文が載せられている。太平洋戦争が日増しに激しくなり、燕京大学も閉 鎖され、スチュアート校長も獄中にある時期に、しかも、北平では、英語教育が廃止され、英文を使用することが厳しく禁止されている最中に、先生がこのよう な出版されたということは、先生が当局に対する抗議と抵抗であることは明らかである。これは先生の気骨と何物にも妥協しない性格の表現でもあり、なかなか 出来ることではない。
 この本が世に出るまでの経緯について、先生は自叙伝の中で書いておられるが、日中戦争に関し、当然日本が敗北するという明確な予想も示しておられる。 「日本人は中国民族の強さを知らない。これは悲しいことである。中国はあまりにも広大で、戦火が広がるにつれ、日本軍は負けて行くであろう」『鳥居龍蔵全 集』(第六巻658頁,1976年)より。              
(安志敏)
編 集者註:鳥居先生は1870年4月4日生まれ、1953年1月14日没。彼は幼少より独学で、1893年、東京帝国大学、理科大学、人類学研究室の標本係 となる。1905年、同大学理科大学の講師に就任し、1921年、東京帝国大学文学博士号を得、1922年助教授に就任し、人類学研究室の主任となる。 1923年からは国学院大学の教授を兼任し、1928年、東方文化学院、東京研究所の評議員と研究員をつとめ、1933年には、上智大学文学部部長兼教授 となった。1939年,中国に来て、1951年まで、燕京大学客座研究教授をつとめた。長女の幸子も、同大学で日本語を教えた。
 鳥居龍蔵の学術的な成果は、考古学と人類学を結合させたことにあり、日本国内での研究はもとより、シベリア東部、千島列島、カラフト、朝鮮及び中国の内 蒙古、東北地方、雲南、貴州、台湾等でも調査、発掘を行っており、東アジアの特に少数民族の古代史と文化を研究している。又、晩年は中国遼時代の文化研究 に専念した。
『燕京大学人物誌』(2000年北京大学出版社発行)
訳:鳥居玲子
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