「中国異文化体験と歴史調査の旅」 『伝説から歴史へ』物証を求めて 2009/4/29〜5/4 訪問先 茂陵博物館、咸陽歴史博物館、咸陽博物館、西漢兵馬俑館、上海博物館 西安郊外の達仁鎮まで、2時間の高速道路と1.5時間の地道をクルーザーで走る。完成間もない高速道路は秦嶺山脈(華北と華中との自然的境界、長さ約 800km)の一部を 約18Kmもある途方も無く長いトンネル(※)を通り抜けると凹凸が激しく道幅の狭い地道を走り中国の急速な発展と国土の広さを実感した。 ※途中には安全運転の為か人工の植樹を電照して、外部の風景をイメージさせるゆとり設計が施されていた。 達 仁鎮では劉家の実家に宿泊した翌朝、鳥居龍蔵博士の鶏鳴を聞いて早朝出発するという日記の常套出だし文を思い出させるような生活が始まった。此処は文字通 り4方が山で、食事は3食全てが谷合の傾斜面に植えられた自作の野菜(豆、芋、筍、にんにく等)と鶏卵、鶏肉、豚肉、川魚だった。中国の川は揚子江(長 江)、黄河に代表されるような水中が見えない濁り水と思っていたが流石にここまで来ると日本の山間部にあるような透明な水が流れていた。 TV、新 聞、電話などの情報と縁遠い中国の奥地でも携帯電話はよく普及していたのは2005年に内モンゴルの大興安嶺で体験した時と同じショックであった。このよ うな山中でも携帯電話とランドローバーのような四輪駆動の高級車や任天堂の最新ゲーム機(小学校6年が夢中)が鶏や豚と同居しているという異様も、2日も すれば違和感無く受け入れられたのは我ながら不思議であった。
新しい発見は他にもあった。中国には「豚」と言う漢字が無いこと、干支でも「豚」変わりに「猪」と書かれているので長らく不思議に思っていたが中国では日 本語の「豚」は「猪」と書き、日本語の「猪」のことは「野猪」と書くことを体感した。そう云えばメキシコで発生し、パンデミック現象と恐れられた「豚イン フルエンザ」のことは西安までの機中で見た中国紙のトップに「猪流感」と大書されていた。
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・お尻の青い話、 蒙古斑(Mongolian Spot、Mongolian Mark,モンゴリアンマーク)について 日本人は幼児期には誰でも蒙古斑を有しており、大小の個人差はあるがそのことで心配することは無い。米国に初めて駐在した時、新婚早々の若いカップルに赤ちゃんが誕生した。現地人の医者が写真で見たり学校で習ったことはあるが直接見たのは初めてと前置きして “こ れは確かに消えるのか?治療の必要がないかと聞かれた若いカップルは逆に心配になって念の為、上司である私に確認の電話と日本の両親に相談したいので国際 電話で相談しようと思うが国際電話代(※)がかかるのでどうしようかと相談して来た。私は躊躇することなく蒙古斑は日本人には必ずあり、年齢差はあるが必 ず消えるよと答えて以来、私にとってモンゴリアンマーク(蒙古斑、Mongolian Spot)は関心事であった。 ※1970年代は国際電話は電話局のオペレーター経由でしか電話することが出来なかった。 約20年後の米国紙に“おせっかいな米国人?がプールで日本人の幼児のお尻に青アザ(蒙古斑)があるのを見つけて親が虐待していると勘違いして警察に通報したとの記事があった。”親にとってはこれこそ正に異国で味わったカルチャーショックだったろう。 更 に10年後に母校の中国人教授が日本人女性と結婚していると聞いたので家庭訪問して奥さんに確かめたところ“自分たちの子供には蒙古斑はあったが、中国で は無い場合が多い。”と聞いた。どうも、漢民族には蒙古斑は無く、蒙古斑は優性遺伝らしい。ということは分かったが実物を観る機会は無かった。 さて、今回の中国訪問は中国人家族と付き合う絶好のチャンスであった。幸い6ヶ月以前の乳幼児が3人もいたので実際に見せてもらったが臀部はピンクの赤ちゃん色で覆われていて蒙古斑は観られなかった。 ・ホテルの印象 往路の西安ではシャングリラホテルに宿泊、帰路の西安では唐華飯店に宿泊した。どちらも豪華なホテルで、特に唐華飯店では孔雀が2羽広い中庭に放し飼いさ れていて、早朝はこの孔雀の鳴き声に目を覚まし、庭に出ると間近で大きな羽を広げてぐるりと回る様はファッションショーを見ているような、しかも野趣たっ ぷりの至福の時だった。 ☆咸陽にて 茂陵博物館、咸陽歴史博物館、咸陽博物館、西漢兵馬俑館を訪問した。
博物館には西漢時代の文化、文物が数多く展示されていたが、私が特に興味を持ったの は「半両銭」と「弩」であった。特に「弩」の使用法についてのイラストに関心を持った。 今回は時間の関係で訪問出来なかったが、過去3回訪問したことのある兵馬俑館でも見ら れなかったイメージ図があった。
博物館見学後、黄河の大支流 甘粛省の西北に発し長安の北を流れて黄河に注ぐ渭水の川辺を散策した。西安市の西を流れる川が渭水で、川を隔てた対岸が咸陽市である。 高校の教科書にあった中国では昔から旅に出る人を送る詩として知られ、わが国では詩吟で吟じられている、王維の詩「渭城の曲」を思い出した。 渭城の朝雨 (軽塵をうるおす) 客舎青青 (柳色新たなり) 君に勧む (更に尽くせ一杯の酒) 西のかた (陽関を出ずれば 故人無からん) “渭城に降る雨は軽い埃をしっとりとうるおす。” “旅館の柳は青々と、雨に洗われてひときわ鮮やかだ。” “さあ、君、もう一杯空けてくれたまえ。” “西の方、陽関を出てしまえば、もう酒を酌み交わす友人も居ないだろうから。” と、云うことで「渭城」は今の咸陽市、西方に旅する時は西安(長安)からここまで見送習慣があったと云う。 ★漢詩?に挑戦? ・咸陽に学ぶ 咸陽歴史博物館、咸陽博物館、茂陵博物館、西漢兵馬俑館、を訪問し、 ・西漢の文明 秦に次ぐ西漢時代の弩及びその使用法(イラスト)と半両銭を発見 ・酒 既に足りて ・渭水に長安の往時を偲ぶ |
渭水 黄河最大の支流 甘粛省の西北に発し長安の北を流れて黄河に流れる。 西安の空港で書店に寄ったら『The FIRST Emperor of CHINA』という英語版の本の中に『徐福さん』の見慣れた写真が掲載されていた。 始皇帝と徐福伝説の関係をこれほど明瞭に示している本を中国で見ることはなかった。 英語版だけでなく中国語版、日本語版等どんどん発行されることで兵馬俑館に「徐福」 のスペースが確保されることを期待している |
上海博物館 上海博物館を訪問したのは3度目である。今回は時間の制約もあって古代銭の展示コーナだけを見ることにした。この展示場はフラッシュを使用しなければ撮影自由である。 模様替えによって前回見つけた半両銭の鋳型を今回は残念ながら見つけることは出来なかった。又、説明員はボランティアが交替で実施しているので今日は古銭の担当者不在との返事に質問と期待を抱いて訪問しただけにガッカリさせられた。
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