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「徐福さん-伝承地に見る徐福像 より

あとがき
(二十一世紀へ語り継ぐもの)
    

  徐福仲間はありがたいものです。老若男女がいらっしゃる。職業も、趣味も、役職も実に様々です。しかし、テーマはいつも徐福です。徐福仲間と一緒に旅する 時、楽しい話は語りつくせません。中国の“徐福さん”、韓国の“徐福さん”、と呼ばれている人との交流も言葉は通じなくてもテーマはいつも徐福ですから以 心伝心です。それぞれの徐福伝承地を訪問すると地元におられる現代の“徐福さん”が最高の歓待をしてくださいます。誠にありがたいことです。新宮の“徐福 さん”と呼ばれる奥野先生は九十余歳の最高齢ですが、我々だけでなく毎年海外(主として台湾)から来られる一万余の観光客を迎えて街の発展に多大の貢献を しておられます。
 京都府伊根町の“徐福さん”石倉先生を訪れる大学教授は少なくない。その理由を尋ねると‘伝承文化はそこに住んでないと理解できないことが多いのですよ、ここには二千年間語り継がれている文化があるのです。
文字のない時代から語り継がれていることは後世、文字にされたことでは言い尽くせないことがあるのですよ’とおっしゃる表情は真剣です。
 徐福研究の方向性も多種多様です。徐福伝承地ではそのこと自体が研究の対象になるのですが、徐福伝承地以外での研究も盛んです。‘徐福伝承文化には三千 余の「謎」があります。それらの「謎」を特定し、推理し、実証へと研究を進める。’と言う研究方法が多いようです。推理の大家・松本清張も徐福研究を始め たが、奥く途中でギブアップしたと言われています。文字のない時代の「史実」を史実とするためには考古学的アプローチで、物証を探すのが確かです。徐福一 行が秦帝国から持ち出した「五穀」「連弩」「半両銭」、「焚書坑儒前の書物」等々が対称となります。物証が無くとも度量衡のようなソフトからも痕跡を探す ことが出来ます。
 しかし、中国では正史『史記』に明記されていることが何故わが国の「記紀」には一言も記述されていないのでしょうか?「謎」は深まるばかりです。「徐福=神武天皇」説が出てくるのも推理結果のひとつとしては自然と言えます。
多くの先生方から頂いた原稿を編集するのは二〇〇〇年に天の川七夕星まつりの会から出版した『交野が原と七夕伝説』以来二度目です。この方法は『交野が原 と七夕伝説』のときに経験したのですが正直に言って‘二度と編集長などするものでない。自分で書く方が余程楽である。’と言うのが当時の発行後の実感でし た。それぞれの文体を統一するだけでなく、世間で少数派の意見として書かれたことをそのまま掲載するのは悩みでした。しかし、今回のテーマは文体も諸説も 頂戴した原稿のまま掲載することに何の躊躇もありませんでした。その上に『交野が原と七夕伝説』発行のときの経験が大いに役立ちました。原稿は文量と 期限付きで収集するのが普通ですが、徐福伝承地の先生方はご高齢者が多いので、期限を督促しないで自由に書いて頂くことを方針としたこともあって、編集を 決意したときから三年が過ぎました。最初に頂いた原稿が経年でそのまま使えなくなってしまうこともありご迷惑をかけました。その典型が小泊の柳沢先生で す。柳沢先生は依頼書に直ぐに賛意を頂き最も早く原稿を頂きました。お陰で柳沢先生の編集原稿をその後の執筆依頼に活用させて頂き執筆に当たっての内容と 分量見本として役立てさせて頂きましたが、小説「津軽」の像記念館の館長を退任された他、中国・韓国の徐福研究家を集めて山本弘峰先生が主催された徐福国 際シンポジュームの時に小泊に設置された徐福像がその後移動されるなどの歴史の流れがあり、原稿を一部書き換えていただきました。ここに特筆してお礼とし ます。

二〇〇五年(平成十七年) 牧野にて   
  大阪・徐福友好塾 鳥居貞義

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